新里律子先生(当時4年1組担任)

  以下は、1997年9月24日の沖縄県土地収用委員会第7回公開審理でなされた新里先生の証言です。

わたくしは恩納村に住んでおります。もと小学校教員をしておりました。                                 まず、本題に入ります前に、宮森小学校戦闘機事故で亡くなられた遺族の方々に、お断りをしてから、演題に入りたいと思います。と、申しますのは、わたくしは昨日まで、今日のための原稿を書いておりました。その中には、この部分はちょっと話せない、削除しなくてはいけない、という部分が多々ございました。ところが、今日この会場に入りましたとたんに、その考えは変わりました。わたくしは苦しい中で、あの当時の様子を詳しく述べることが、遺族への償いかと思います。つきまして、当時の模様を赤裸々にお話申し上げることをお許しいただきたいと思います。

 では、本題に入ります。1959年6月30日、私は宮森小学校で4年1組の担任をしておりました。いつものように、平和なのどかな朝が始まり、平和な学園生活でみんなも嬉々として一日を迎えていました。当時わたくしは29歳。結婚したてで、お腹の中には6ヶ月の赤ちゃんを身ごもっておりました。ちょうど10時20分頃だったんです。いつもは、子供たちを教室から早めに出すものを、その日は、ミルクの時間に雑務が食い込みまして、不幸中の幸いとでも言うんでしょうか、外に出す時間が食い込んでおりました。さて、雑務を終えて、ミルクの時間に入りました時に、当番の子供が「ミルクいただきます」と言って、一杯飲みかけた時に、どっかーん。すごい音が教室中を揺らせました。

 何だろう。子供たちは席を蹴って、ミルクをこぼして私の教壇前に集まりました。ひょっと、西口の入口の屋根の上を見ますと、真っ黒い物体が屋根の一角にぶら下がっております。私はとっさに、これは、不発弾だなと思いました。あれが落ちたら教室は木っ端微塵だ。子供たちを避難させなくてはいけない。とっさに思いました。子供たちは「先生、カバンどうしますか」こういう事態になっても、子供たちは自分のカバンというのを、カバンの心配をしました。「カバンはいいから、後で取りにくるから、みんな安全な場所に避難しましょう」と言って、先頭の子供たちは、順序よく出口から出て行きました。わたくしは最後に教室の全体を見回して、1人の子供も残っていないかなと思って、最後に教室から出て行きました。

 するとどうでしょう、わたくしの前の2年生の教室の前から、4,5名の子供が火だるまになって飛び出してきました。髪はぼうぼうと燃えて、洋服がぱちぱちと燃えております。最後にパンツのひもが・・・・。私はこの状態を見ても消すことができませんでした。パンツのひもが燃えて、最後に、水道のところでパタッと倒れました。ジュウという煙に混ざった水の音に私はびっくりしました。子供たちは欠けたガラスの上を、火の上を、踏みながら安全な場所へと歩いていきました。

 職員室の前に来ました。丸太ん棒のように真っ赤に焼けただれた男の子か女の子かわからないような子が、手足だけが丸くなって煙をはいております。2階の方から、当時の教頭先生が、女の子を抱いて降りてらっしゃいます。6年生の女の子、頭のほうが大怪我をしています。到底助からないと素人の目にも映りました。教頭先生が真っ白いシャツを真っ赤な血で染めながら、この子を抱いて泣きながら降りてらっしゃいました。

 それでも私は自分のクラスの子供が36名、無事に一箇所に集まってくれましたので、そちらへ行きますと1人の男の子が「先生、足が痛い」。ミルク当番で、ミルク受けを持った子供が、足が痛いと。見ましたら、運動ズボンの足の下の皮が全部剥げているんです。生皮が剥げて、真っ赤に、血ではない。「あなたは重油をかぶったんだね、お母さんはお家にいるから、お家に帰ってお母さんと病院に行って頂戴。」

 もう1人の女の子は頭から血がざあざあと流れてきました。この子は、窓側の窓ガラスで頭に怪我を負っていました。髪をあげるとたいした怪我ではありませんでしたので、持っていたハンカチで押さえてあげて、「あなたも怪我はたいしたことはないね、お家に帰りなさいよ」。やっとのことで、それだけを言って、家に帰しました。

 そして、残りの生徒は全員無事だということが、わたくしは分かりましたので、お腹の子供がちょっと下がり気味でしたので、運動場の一画で座っていました。しばらくしますと、いろんな親たちが子供の名前を呼んで、子供たちは親の名前を呼んで、地獄絵さながらでした。

 ヘリコプターは空中から飛んできます。後で分かったんですけれども、私の教室も、屋根が、煉瓦の屋根がめくり取られておりました。そして、教室をこすって隣の2階の6年生の教室に機体の一部が入り込んだのです。担任の先生が肩を、機体の一部で、肩を打たれて、その瞬間は痛みも何も気づきませんでした。自分のクラスの子が、機体の下になって、血だらけになって亡くなりました。

 児童11名、一般の方が6名、17名が亡くなりました。さらに、210名という重軽傷者がいました。

 わたくし達は職員としての務めをはたすべく、一生懸命頑張りました。1人の女の先生が流産しました。当時の校長先生は、ショックのあまり、病気に倒れました。それから、一番多くの犠牲者を出された女の先生は、教室にいて、自分は助かって、大勢の子供が亡くなったり、怪我をしたり、苦しい気持ちをこらえながら、各遺族の家を回りました。そして、この先生は、戦争の体験で、満州引き揚げ者でいらっしゃいました。主人と2人の息子を満州で亡くしました。自分は満人に犯されないように、顔に炭をぬり、縁の下にもぐっては難を逃れてきた。そんなふうな苦しみを越えてきたのに、またこのような悲しみにあうとは。先生は毎日このことで、苦しんでおられました。先生はこの苦しみを胸のなかに秘めながら、昨年亡くなりました。自分の体は琉球大学の医学部に献体をなさったと聞いております。

 さて、当時の事故は、思い出すのも悲しいことでございます。遺族の方々は38年を過ぎても、まだ苦しみをこらえております。昨年お話した、あの2年生の女の子の亡くなった女の子の家庭でびっくりしたことがありました。「先生、これ見て下さい」と言って見せてくれたのは、なんと、その子供の1年生の時の皆出席証だったんです。1年の時に病気もせずに、このような健康で1日も欠席しないで学校出てきた子が、2年の6月に帰らぬ人となったのです。家庭ににとって、年が重なる毎に、悲しみは深まるとおっしゃいます。その間中、あちらこちらで線香の匂いがしました。今日は病院から連れて帰るんだ、この子は助からないんだ、と言って、あちらこちらで線香の匂いがいたしました。

 直った子供で記憶喪失の子もいます。4年生になっても3年生の時の怪我が原因で、掛け算も全部忘れてしましました。五十音も忘れました。その前のことは、あなたの受け持ちは誰だったでしょう、といったって思い出せません。記憶は全然ないそうです。それから、その当時は助かったけれども、何年後に体のケロイドのために内臓疾患で亡くなった方もいます。

 いくら賠償の金を積まれても、いくらお詫びを言われても、遺族の気持ちは変わらないと思います。今沖縄に基地がある限り、絶対の安全ということはありません。私たちは、そういう悲しみを二度と味わわないために、平和な島にして欲しいと思います。どうも有難うございます。(拍手)