コラム

2017.08.20

平成29年 京都の六斎(1)

市内各所の六斎を学びに行ってまいりました。

まずは、西賀茂西方寺の六斎念仏。平成29年8月16日(水)。
京都市バス「大宮総門口町」下車、北西の方角へ歩いて10分足らずの西方寺(さいほうじ)で奉納されます。
(バスを降りたら右へ、ガソリンスタンドの角を左折、大きめの通りに出たら右折、クランク状の角を左折、直進右側)
特別案内も出ていませんし、あんまり灯りもない地区なので、初見の方は地図を確認しながら行った方が良いです。
当日は五山の送り火で、日頃は寂しいであろう時間帯にもかかわらず、ぞろぞろと住民の方が出歩かれていました。
船形のお膝元である当地ですから、その送り火が間近に見られるのです。

六斎念仏は午後9時からの開始。
比較的遅い時刻から始まるのは、送り火が終わるのに合わせているからです。
というのも、以前は山に火をつけに行く人(物騒な意味ではありません)と六斎念仏をする人が同じで、その人達が山から下りてきて六斎念仏をしていたので、そういうスケジュールになっているとのこと。
現在は原則として別働隊になっているそうです。
時間前になると、既に装束に着替えられた方、これから着替えられる方が続々とお寺に集まってこられます。
そうする内に、ご住職がかがり火をつけられ、講衆がそれを中心として輪になると、鉦方のお一人が皆さんに「揃われましたか」と尋ねられまして、どうやら全員いるようだと判断されると、おもむろに奉納が開始。

門を背にして鉦方が三名、それ以外は太鼓方で、門から本堂に向かって、右手、左手に各3名、本堂を背にして3名、総勢12名の配置。
最中に配置が動くことはありません。
太鼓方は、襦袢とステテコのような薄手の白い装束を身にまとい、鉦方は長襦袢の上から黒の薄手の羽織姿。
太鼓は下から上へ、また上から下へ動かします。
打ち方に妙があり、少し膝を曲げ、バチを斜め上へ掲げるような所作を行います。
発願から顔以此功徳まで15分程のお念仏。
文言は多くなく、鉦と太鼓三昧が際立つ感じです。
観衆は、門を入ってすぐの辺りと、本堂の階段辺りに固まって見守ります。
この日は100人弱お見えだったと思います。


続いて、8月18日(金)上御霊神社。小山郷六斎が奉納されます。
発願と結願(阿弥陀打ち?)は、ここではなさいません。
小山郷六斎は22日の上善寺がメインの印象で、そちらではフルでなさいます。
例えば、祇園ばやしの入れごとも省略せずに演じられます。
とはいえ、この上御霊神社もやはり一山打ちであり、長時間に亘って一通り堪能出来ます。

境内中央の舞殿から本殿へ向けての奉納になります。
やはり正面の近くからご覧になるお客様が多いので、その位置でご覧になりたい場合は早めに場所取りなさった方が良いですが、それ以外の場所はぎゅうぎゅう詰めでもないので、四方八方どこからでも観覧出来ます。
境内は真っ暗で、舞殿だけがふわっと明るい感じ。幻想的です。
また、小山郷六斎というのが曲も進行もおっとりとしており、その雅やかな風情とよく合っているのだと思います。
御所が近い土地柄もあるのでしょう。
なんでも、“公家六斎”なんて呼ばわることもあったらしいです。
上御霊神社や上善寺は、地下鉄「鞍馬口」駅からほど近い所にあります。いずれも、烏丸通より東側です。


次は少し趣向を変えて、地蔵盆廻りに付いていってきました。
地蔵盆をしている町内を訪れて、お地蔵さんに六斎念仏を奉納して廻る行事です。
今回お供させて頂いたのは上鳥羽橋上の鉦講。本年は8月19日(土)実施でした。
地蔵盆は従来8月22日、23日に行うのが常でしたが、近来はその前後の土日に済ます所が多いそうです。
小学校の夏休みも22日には終わると言いますし、そもそも子供の数が激減しているご時世。
地蔵盆そのものも、廃止した所が多いみたいですね。
時代の流れです。

メニューは、香偈、三宝礼、懺悔偈、焼香太鼓、回向3種の盛合せです。
これをお地蔵さんに向かって奉納します。
1カ所につき、20分少々の所要時間。
太鼓4名、ほか7、8名が鉦方です。
導師(調書)は2名が交替で担当されていました。
お子さんの講衆が増えまして、大層ご活躍でした。

本年は、午後6時から6カ所を廻られました。
最初は明るかったのに、気づけばすっかり夜に。
終わったら、9時半近かったです。
後ろで見ていただけなのに疲れました……。ひと仕事終えた気分です。
この行事は、通りかかったタイミングで外から眺めることは可能なのですが、わざわざ見に行きたいという場合、どの時間にどこでやっていると言うのが難しいので、一般の観覧には不向きかと存じます。
実際、見ている人も地元の方ばかりですし。
なお、8月22日は浄禅寺(南区上鳥羽岩ノ本町)にて奉納があります。こちらは一般公開です。


8月20日(日)は干菜山光福寺(ほしなざんこうふくじ)にて、田中六斎が奉納されました。
よく六斎を学術的に分類するとき、“干菜寺系”なんていう用語を使いますが、その言葉のもとになっているのがこの光福寺。
門前には「六齋念佛総本寺」なる石碑が立っており、その由緒を偲ばせます。
なんでも、当寺中興の祖である道空上人というお坊さまが六斎念仏を集大成されたのだとか。
いま普通に使っている“六斎念仏”という単語が実質広まったのも、この方の影響によるところ大かもしれません。
当地はそういうお寺を擁する地区ですから、当然に六斎念仏が存在するわけです。
お寺は叡山電鉄「出町柳」駅から東向きに歩いてすぐの所にあります。
ここから先の地域を元田中と呼びます。

公式には田中村六斎念佛と呼称しているようですね。
ただ、実はこの六斎、久しく中断の時期がありまして、その復活に際して小山郷六斎がお手伝いをされています。
その関係は現在も続いており、内容的にも小山郷六斎がその講衆によってそのまま演じられている現状です。
ということで、私は中1日で小山郷六斎を2回も見ることになりました。
すごく熱心な小山郷ファンです。

以前は脇の駐車場に舞台を組んで演じていらっしゃいましたが、今は本堂内で奉納なさっています。
ご本尊に向かって、上手に舞台、下手に客席の配置。
観覧の際は、早めに行って、本堂内に陣取ることを強くお勧めします。
あぶれた人は本堂の下から見ることになりますが、どの位置に居ても、はっきり言って断片的にしか見えません。
ただ、早く行くと言っても、だいぶ早くでないといけないと思います。
というのも、この前の上御霊さんの時もそうでしたが、どうも小山郷さんには開始予定と事前告知している15分程前には始めてしまう癖があるらしく、この日も十分位前に着いたら、もう3番目の演目が終わろうとしていました。
もっとも、こういうことは他所の六斎でも多々ありますから、初めてご覧になろうという方は、是非ぜひお気を付けくださいませ。

2017.08.11

今宮神社のお祭りレポ

先日8月5日にあった今宮神社での奉納について、一言触れて欲しいとのお声を頂きました。

今宮さんのお祭りは、今年で3年目の参加になります。
正直な所、いまだにどういう行事なのか、綾傘鉾の誰もが詳しく説明できないのですが、

1、本殿の御祭神ではなく、向かって左のお社がメインの祭礼であること
2、そのお社から“織姫様(おりひめさま)”が御降臨なさること
3、神社の関係者らしき皆さまが御招待を受け、観覧されているらしいこと

が、特徴です。
飛び込みで見に行って鑑賞出来るかどうか、その都度神社に問い合わせた方が確実かもしれません。
1年目は、出演者の知人でも、招待客でなければ入場を断られていました。

毎年少しずつ工夫を凝らされ、色々な演出を試されているようです。
伝統行事というより、前衛的なイベントといった雰囲気。
お名前失念しましたが、世界的に有名なアーティストの方が、石のオブジェのようなものを叩き、反響させて奏でる環境音楽(みたいな、ヒーリング音楽みたいな)がずっと境内に流れています。

織姫様は、人間で言うと小学生位の女の子。
有体に言うと、そういう役割を与えられた(御霊を移された?)子が、祭礼の中心になるということです。
お囃子も全て、この織姫様に向けて奉納します。

綾傘鉾のほかには、和歌の詠唱会や、和楽器の演奏も催されます。
今年は、大船鉾のお囃子方もいらしていました。
祇園会から他の町が参加されたのは、3年目にして初です。
ちなみに、綾傘鉾の後に大船鉾のお出番だったのですが、その様子を拝見すると、舞台の角に座られた織姫様に対して平行に、斜めに並んで演奏をするという、祇園祭史上でも珍しい舞台の使い方をしておられました。

境内には観客席以外ほとんど照明がなく、かがり火が所々に焚かれている程度です。
我々綾傘鉾は、旗持ちを先頭に境内を練り歩き、織姫神社に拝礼後、舞殿で棒振囃子を披露。
この時、1年目は織姫神社に向けて舞台の上から全員で、2年目は舞台の上におられる織姫様に向けてその下の白砂の上から、そして今年は、白砂の上にお掛けの織姫様に向けて、棒振と巡柱は舞台の上、その他の者は下からお囃子を奉納するという変則的な陣形で臨みました。
毎年何かしら変化を付けた演出を施されます。
棒振囃子が終わると、また境内を巡行して戻ります。
お客様は舞台の周囲にわずかに固まっておられるだけですので、徒歩巡行を間近に見られることはありません。
遠くから来て、また遠くへ去っていく徒歩囃子を、神秘的に描くという趣向なんじゃないでしょうか。
以前より若干は明るくなったと言いますが、1年目はほとんど真っ暗闇の中で行われました。
お蔭で、覆面を着けた者は周りが何も見えずに難儀したものです。

社務所の近辺ではお食事とお飲み物がふるまわれており、私共も今年初めてご相伴にあずかりました。
カレー、ナン、クロワッサン、ゴーヤチャンプルー、湯葉の揚げ物、茄子の揚げびたし、秋刀魚の開き、など15品目程が並んでいたと思います。
ただ、やはり暗くて、何を取っているのか勘に頼ることが多く、食べてから理解するものも少なくありませんでした。
知り合いの顔も見間違う位なんです。ちょっとした闇鍋気分です。

雰囲気最優先の、そういうトガッた(?)演出のイベントでした。

追伸
門の外で出番を待っている我々に、元祖あぶり餅いち和のお姉さまが、「暗いですやろ。電気点けましょか」と声を掛けて下さり、既に店じまいしていたお店の灯りをわざわざ点して下さいました。
御蔭さまで、快適に過ごすことが出来ました。
誠にありがとうございました。

2017.08.01

壬生六斎の旅:書寫山圓教寺

ご覧下さい、この素晴らしい眺め。さっきまで居た地上があんなに下の方ですよ。
わたしは今、ロープウェイに乗って山登りをしています。
なんの為かって? 実はお寺詣りをする為なんです。
そう、これから行くお寺は、ロープウェイで行かなければならない程、山の上にあるんです。

こんにちは。壬生六斎に所縁のある地を巡るシリーズ、壬生六斎の旅です。
四回目となる今回は、引き続き「飛観音」より、書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)を訪ねます。

播磨國にて書寫寺観音 はるばる登りて 観世音まへにて 札うち納める

圓教寺は西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。
その境内はとても広く、なんとこの山頂一帯が丸ごと圓教寺なんです。

ロープウェイの山上駅を降りた後も、山道をテクテク歩きます。仁王門を過ぎてもまだまだ。
これはもう、完全にハイキングコースですね。

ようやく開けた所に出ると、迎えてくれるのは、まるで京都にある清水の舞台のようなお堂、摩尼殿。
そして、さらに先へ進むと――

目の前に広がるのは、常行堂、大講堂、食堂の三つのお堂に囲まれた運動場の様なスペース。
(写真右手が大講堂、正面が食堂)

横長の建造物、食堂(じきどう)は二階建て。大変珍しい建物です。
(先程の写真と逆方向から見下ろした図。右手奥が常行堂)

圓教寺は、ハリウッド映画やNHKの大河ドラマをはじめ、数々の時代劇のロケ地としてもよく使われているんですよ。

では、ここでクエスチョン。
寺の名前の前につく“ホニャララ山”というのを山号と言いますが、書寫山の場合は山号としてだけでなく、この山そのものの名前にも用いられています。
その名前の由来は、ある神様が山頂に降り立ったという伝説に因むのですが、では、その神様とは一体どなたでしょうか?
♪チャラララチャラララチャラララチャラララチャーン♪

まこと「え? お寺なのに、神様?」
ひとし「ま、そうですね。昔は神仏習合と言って、今ほど厳格に分かれていませんでしたから」
えいじ「しかし、そうは言うてもね、神様の名前書けっちゅうたってあーた、そんなん、なん人も知りませんよ」
ひとし「ええ、ですから、ま、かなり有名な方と申しますか」
まこと「ヒント下さいよ、ヒント」
てつこ「あら、あたくし分かったかも」
ひとし「ではお書きください、どうぞ」
まこと「ちょっとー!」

~シンキングタイム~

ひとし「では、まずまこと君から見てみましょう。これは……『イエスさま』?」
まこと「神様って言うから……」
えいじ「きみねえ、日本の寺や言うてんのに。ほんばにもう、ぼくこの人と並ぶの恥ずかしいわ」
まこと「だってもう、分かんないんだもん!」
ひとし「では続いて、バンドーさん。『アマテラス』とお書きで」
えいじ「“有名な”っちゅうことでね、やっぱりピーンときました。あの男とは出来が違うんですよ、ここの」
ひとし「では、先程“分かった”とおっしゃっていたクロヤナギさん、『スサノオノミコト』」
てつこ「ええ、多分、書寫山の“しょしゃ”っていう音は、スサノオの“スサ”がなまったものじゃないかと思います」
まこと「エー、そんなダジャレみたいなことあります?」
てつこ「あら、あーた知らないの。昔から物の名前っていうのはそうやって関係するものから引っ張ってくることが多いんですよ」
えいじ「ああ確かに、おかあさんにそう言われると、そんなような気がしてきた」
てつこ「そこいくと、あなたのアマテラスもなんだかねえ。ただ単に有名だからっていうのも、ウッフッフッフ」
ひとし「では、正解を見てみましょう」

姫路市に合併されるまで、この辺りは曽左村(そさむら)と呼ばれていました。
これもやはり同じ由来に基づくもので、そもそもお寺が出来る以前から、山は素盞ノ杣(すさのそま)と呼ばれていたそうです。
“素戔”すなわち、素戔嗚(すさのお)ですね。
というわけで、正解は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」でした。
一説には、その後、僧侶が一心不乱に経文を書き写す様を称えて、“書写”の字をあてるようになったそうです。

ひとし「というわけで、クロヤナギさん正解です。お見事」 テッテッテー♪

……

……

……

……クイズ番組「世界ふ○ぎ発見」の往年のやり取りを、特に意味もなく再現してみました。
(冒頭からミステリーハ○ターがレポートしている体になっています。そのつもりで読んで頂ければ)
ちょっと趣向を変えてみようと思って……。

帰りに、ふもとの駐車場にある食堂でおうどんを食べました。
ぼたんうどん、という、その名の通り、猪の肉が入っているおうどんです。冒険してみました。
お肉は甘辛く煮てありまして、臭みとかそういうのはないです。美味しかったです。
お店のお姉さんも愛想良かった。「また来て下さい」と言われましたが、そうそう行ける場所でもないんだよなあ。

書寫山圓教寺へは、姫路駅から神姫バスに乗って30分程度。そこからロープウェイで4、5分。
地元の人も使う路線バスは、時間帯にもよるでしょうが、行きも帰りも割と混みあっていました。
バス停では早めに並んでおかないと座れないかも。

2017.07.24

平成29年 後祭日和神楽

7月23日夜は祇園会、後の祭りの日和神楽です。

南観音山、大船鉾、北観音山の順に御旅所で見ました。
鷹山は見なかったので、南観音山の前に来たのでしょうか。

前の祭りのように四条通を東進してくるのではなく、いずれも寺町通から南下してきました。

奉納後の北観音山に付いてゆくと、寺町を上がって三条を西へ行きました。
その後、堺町で曲がるようなことを漏れ聞きました。

堺町を超えると、大船鉾に追いつきました。
飲み物休憩をされて、その後、烏丸を渡って鷹山の町へ。

鷹山は町内でまだ演奏中でした。
その横を抜ける大船と鷹山の囃子が交錯する様子は、言語に尽くしがたい美しさでした。
前の祭りでは、日和の際、他所の山鉾に近づくと囃子を中断しなければならない申し合わせがありますが、後祭りではないようですね。
和気あいあいとした囃子方の交流は、町衆の心意気を象徴的に表したダイナミズムを感じさせました。

それはそうと、鷹山の日和の台車は非常に大きいですね。
思うに、全基中最大でしょう。
お子さん達が鉦を担当されていたことを差し引いても、かなり縦長だと思います。
復興に向けた勢いを感じました。

その後、南観音山のあばれ観音を拝見し、“わっしょい、わっしょい”とかしわ手を打って帰りました。
明日は神輿送り、祇園御霊会です。

2017.07.01

壬生六斎中興伝(2)

二 年寄衆

 講中再結集最初の活動は、昭和20年(西暦1945年)京都第一赤十字病院への進駐軍傷病兵慰問公演でした。時代背景を象徴するような依頼です。これに講衆の誰が何名参加したかまでは詳らかに伝わっていませんが、まだ新会員の募集をする前であったことから、その後の講中に在籍した戦前派を中心に組織して行ったものと解されます。

 この戦前派というのは、戦後加入者の中核からして大よそ親世代になります。実際、浅井音次郎氏と、後に会長となる浅井光三氏は親子で、講中休止の時にはまだ幼かった三男坊光三氏が、戦後に父から誘われて入会したものです。新人はこの光三氏と同年代が中心であり、当時二十歳前後。その彼らから“年寄衆”と呼ばれた戦前派達は、平均寿命の延びた現代の年齢観念以上に、例えば六十代でもお年寄りに見えたものでしょう。

 但し、ここで言う戦前派と年寄衆は同義ではなく、戦前から加入の講衆にも唯一年寄に扱われない人がありました。それは、先に挙げた浅井光三氏より一回り程年長の上田博一氏で、当時三十そこそこですから、さすがにこの時代でもまだ年寄とは呼ばれません。博一氏は出征から帰ってきての合流でした。元々は昭和13年(西暦1938年)時の名簿にも名を連ねている講衆です。

 その博一氏の父親が上田源次郎氏で、彼らもまた浅井氏同様親子で講に所属していました。この上田家と浅井家は代々壬生六斎を支えてきた家で、特に上田家は、博一氏の息子らもまた六斎で活躍し現在に至ります。先祖供養を趣旨とする集まりであり、且つはまた地域内での限定的社会活動であることから、かつては家単位で関わることが伝統的に多かった壬生六斎念仏講中ですが、両家はその名残を僅かながら今に伝えるものと言えるでしょう。

 上田源次郎氏は元青果市場の経営者で、“壬生源”と言えば地区内外に知る人ぞ知る人物でした。その逸話は枚挙に暇がなく、一例を挙げると、友人の借金の連帯保証人になって二度も破産しながら、二度とも経営を盛り返した、というのがあります。この話の括目すべき点は、破産の際、給金が支払えないからと暇を出したにもかかわらず、従業員が一人も去らなかったところ。余程の人望と信頼がないと成立しないことでしょう。現在の京都市交通局壬生操車場と中京警察署の敷地は、その青果市場を売却したものです。

 芸ものを得意としていた源次郎氏。「祇園ばやし」の棒振り、「獅子舞」の蜘蛛を歴任しました。棒振りの時は“鬼門切り”という、これは大相撲の弓取り式で見られるような所作で、これを取り入れているのが特徴でした。また、自身が蜘蛛を担当していたからでしょうが、棒振りの時も蜘蛛のスを撒いていました。後代の担当者もこれに倣った例があります。戦前からの連続性が一旦解消されている為、後進は結局、彼ら年寄衆を基準とするほかなかったのです。その意味で、源次郎氏の芸は一時伝承の集約された指標とされたことでしょう。

 この点は、笛の旋律についても強く言えることです。笛方は講中再開当時、若林清次郎氏一人しか残っていませんでした。そもそもが笛を吹ける人間は数が限られていたようで、若林氏がただ一人で壬生大念仏狂言の笛も守っていた時期があったと言います。壬生狂言に笛の導入されたのは明治期以降と大念仏講中の方から伝え聞きますから、間違いなく明治以前の生まれである若林氏の笛は、あるいはその始祖に近い形だったかもしれません。いずれにせよ、氏の旋律を六斎、狂言共に見倣うほかはなく、後にそれを受け継いだ根角栄一氏が今度は壬生の正統となっていくのです。ちなみに根角氏は、若林氏から江戸時代作の笛そのものも譲り受けています。

 ところで、伝承伝承と言っても書き残すものとてなく、音楽といっても西洋のように規則性を持たない性質上、六斎においては知識の伝達に最も有効適切な手段が根付いてきました。それは、歌です。壬生六斎における伝統継承の要は全て口伝なのです。その重要性を説き、併せて太鼓の技術を中心に指導したのが、浅井音次郎氏と、そして佐竹藤三郎氏でした。

 就中浅井音次郎氏の家は先述の通り代々六斎に深く関わってきたわけですから、とりわけ伝承には詳しく、また独自に家で預かっている道具類もありました。傘鉾との由来についても、その父・寅次郎氏から親しく聞かされており、また緻密に記憶を整理する性格もあって、出来るだけ正確に、且つ熱情を持って息子らに伝えたと言います。綾傘鉾の再開に際しても、上田博一氏と主導的役割を果たしましたが、残念ながら巡行参列には間に合わず、都大路に響く棒振囃子を共に謳歌出来ずに他界しました。

 佐竹藤三郎氏は、これまた記憶が鮮明な人で、歌と太鼓はなんでも出来たと言います。六斎の曲の伝授は、師と膝付きで相対し、歌いながら竹のバチで床板や木竹を打って行います。こういう稽古法自体の伝授も一種の遺産ではないでしょうか。ちなみに、家は酒屋をかつて営んでおり、新撰組がツケで買った時の証文が残っていたとか。

 この佐竹氏、先の若林氏、それに後輩の根角氏、堀氏はいずれも壬生川通より東の仏光寺通沿いに住まいが揃っていました。さらにこの一画にはもう一人、木村茂三郎氏という年寄衆もいました。この人は「四ツ太鼓」が滅法上手く、太鼓に跨るようにどっしりと足を開いて、且つはまた丸ごと抱え込むように腕を構えたら、目にも止まらぬ早業で打ったと言い、ある人がよく見たら上の段の二つしか打っていない時があったそうですが、そんなことがまるで気にならない位、観衆を魅了したとの逸話があります。但し、気難しく、後輩が頼みに頼んでやっと二度稽古に顔を出したのですが、後にも先にもそれだけしか参加しなかったそうです。

 年寄衆にはほかに、浅井英一氏という、鉦を主に担当していた人もありました。この人は、壬生狂言でも鉦を叩いていたそうです。壬生大念仏講中と壬生六斎念仏講中は全く別の団体ですが、ひとつ地域に存在する関係上、六斎にいる人は狂言を兼ねるのが通例でした。その際、やはり囃子を引き受けることもありましたが、それだけではなく、芝居の方もやっていました。

 こうして壬生六斎の伝統は、上田源次郎氏、浅井音次郎氏、若林清次郎氏、佐竹藤三郎氏、木村茂三郎氏、浅井英一氏ら年寄衆六名と、上田博一氏を筆頭とした新世代によって引き継がれていくのです。

2017.06.20

壬生六斎中興伝(1)

壬生六斎中興伝

  ***

 これは、先の大戦後の壬生六斎念仏講中再興過程を、当時を知る講衆、浅井光三氏、根角栄一氏より得た証言に基づいてまとめた記録です。けだし、時代を経た先達の言はそれ自体が文化財であり、これは伝統の保存を第一義とする会にとり継承すべき財産の一つです。語り伝うべき記憶遺産が将来に亘って共有されんことを願って、ここに公開致します。

  ***

一 戦前

 昭和13年(西暦1938年)、壬生六斎念仏講中は活動を休止しました。この年の在籍者は、名簿上23名が確認出来ます。戦時中、大人且つはまた志願した少年は戦地に行きました。幸いにして、無事帰国の後に六斎に戻った人もいます。あるいは、学徒動員の一環で労働に出た子が、終戦後の募集に応じて講中入会を果たしました。もっとも、終戦即行事再開とはゆきませんで、人もおらぬ中、先述の新会員募集をぼつぼつやっていくことになります。

 戦時下にあっては地域の様相も一変し、例えば、壬生川通は今でこそ車が両面を行き交う程の道幅ですが、かつては自転車ですれ違うのもやっとだったと言います。それが、類焼を免れる為の疎開と称し、沿道の住民が当時の100円程度を貰って立ち退きを余儀なくされた結果、現在の道路へと変貌していくのです。疎開者の中には講中の木村茂三郎氏もあり、宅は壬生川通から仏光寺通へと移ったのでした。

 ところで、戦前の壬生六斎がどのようであったのか、当時の講衆が存命していない現状、直接詳らかに聞くことは出来ませんが、民間史家・田中緑紅氏によると、「日露戦役の頃には相当にやっていた」(「六斉念仏と六斉踊」昭和34年9月10日)と言い、浅井光三氏に曰く、これは自身の父親らこの時の年寄衆から得た証言のようで、一聴に値します。また、田中氏は前掲書所載の棒振りの写真を別本(題名を失念しました)にも使用していますが、その記述によれば昭和8年(西暦1933年)に上写真を撮影したらしく、戦前に舞台を観覧したのは確かなようです。ここで生きてくるのが、前掲書中にある「種蒔三番叟と願人坊を得意とし」という記述です。

「種蒔三番叟」は現在途絶えている演目です。同書にはほかに「玉川」の名も曲目欄に見えます。いずれも失われてしまった曲ですが存在したことは確かで、うち「種蒔三番叟」については浅井音次郎氏が生前、「教えなあかんなあ」と息子光三氏に言い残しつつも、遂に伝えそこなったものです。結局、いずれも戦後に上演した記憶が誰にもなく、幻の曲となっています。“得意”としていたかどうかは筆者の主観による所が多いと存じ、確定出来ませんが、田中氏は少なくとも見た可能性は高いと言えるでしょう。

 ともあれ、明治から昭和にかけて活動自体が滞りなく続いていたことは講中所蔵の大福帳に徴しても明らかで、戦争という緊急事態さえ無ければ、従事する人間が大幅に入れ替わることもなく、果たしてそれでその後の継承に全く憂いなしとは易々と肯んぜられないにしても、あからさまに休止の決断を急ぐことまではなかったかと存じます。

 戦後、休止前から加入の者で残ったのは、わずか7名でした。

ページの先頭へ