2010年研修生 磯田好美
2010年の3月下旬に初めてブラジルへ降り立ちました。当時はまだ成田からサンパウロまでの直行便があったので、ニューヨークでの給油休憩を考慮しても今よりは短時間だったのかもしれませんが、日本の反対側に位置するブラジルがいかに遠いかを感じた旅程でした。
夜8時成田発の飛行機に乗り込み、夜を追いかける旅が始まりました。成田の夜空を飛び立った機内で夕食をいただき、ニューヨークに着く前、明るくなった頃に翌日の朝食までいただきました。しかし、ニューヨークに着いたらまだ前日の夜で、サンパウロに向けて夜空を飛び立った飛行機の中でまた前日の夕食が出てきたのです。翌日の朝食後に前日の夕食を食べることはそうそうありません。これが時差か、移動中に新たな1日が始まらないように夜を追いかけているのかもしれない。成田→ニューヨークで13時間。ニューヨーク→サンパウロで9時間。夜の日本を出たのに、夜のニューヨークに着いて、また長い夜。バミューダ島の上空10000mを時速1000kmで飛んでいる頃、眠気と闘いながらそんなことを考えていたことを思い出します。流石にサンパウロでは夜が明けて安心しましたが。
飛行機の窓から見えたブラジルの景色では茶色い土と所狭しと並ぶ茶色い屋根、緑色の山々が印象的でした。そして飛行機を降りるとむっとする暑さ。3月中旬、ブラジルでは秋と呼ばれる頃の朝10時に気温が25℃だとか。空港までお迎えに来てくださった日本人会の方の車窓から見えたバナナの木、パパイヤ、鳳凰木、ハイビスカス。気候も景色も自分に合っていて、この土地を大好きになるんだろうなと感じました。そしてその予感は大当たりで、2年間の研修が終わってからも再渡伯し、通算4年間のブラジル生活となりました。
派遣先はピラール・ド・スールという人口2万7千人の小ぢんまりとした町の日系社会でした。赴任してすぐ和太鼓のコンクールがあり、脈々と受け継がれる日本語と日本文化を感じて何だか妙に感動しました。遠いブラジルという国にいながら、行ったこともない、見たこともない、だけど自分の祖先の母国・日本の文化を受け継いで一生懸命太鼓を叩く子どもたち。普段はポルトガル語でブラジルの生活をしていて、顔だけが日本人。それでもそのルーツを求めてか、日本語を勉強し、太鼓を叩き、ソーラン節を踊る子どもたちを見て、胸がいっぱいになったことを今でも覚えています。そんな感動から始まった任地での研修生活ですが、日本語学校の授業では子どもたちは言うことを聞かず、戦いの始まり…!「先生、もう時間!休み時間!」「先生、サッカーしよう!」「知らん!」素直で可愛くて手ごわい子どもたちを相手に2年間でかなりタフになりました。日本では自分は感情の起伏があまりない方だと思っていましたが、ブラジル生活によって、感情の振れ幅が5倍~10倍は大きくなったとも思われます。文字通り泣いて笑って怒っての研修生活でそれまで味わったことのなかった感情を味わいました。
ポルトガル語が分からず、スーパーでお肉を500g買いたいけれど「500」が言えなくて、掌を広げて「5」を示したら5kgのお肉を準備されそうになったこと、商品の表示が読めず、トイレットペーパーとキッチンペーパーを間違えて買ったこと、電車の切符は余分に持っていたのに地下鉄の切符を買うお金がなくなって地下鉄の駅で「電車の切符と交換してくれませんか」と行き交う人に頼みまくったことなどなど、日本にいたらまず経験しなかったであろうことが沢山ありました。
だるま塾研修生としてブラジルへ行っていなかったら、全く違った日々を送っていたことでしょうし、今の私も少なからず違っていたはずです。このような素晴らしい機会を与えてくださっただるま塾、達磨会並びに森脇先生には、感謝の気持ちでいっぱいです。今後ともだるま塾研修生、達磨会が続いていくことを心から願っています。
2016年5月7日 2010年度研修生 磯田好美