南米ブラジル 日本語教師 元研修生 OB/OG会 達磨会 森脇礼之 だるま塾塾長

1984年研修生 吉田尚史

1984年5月、初めてブラジルの地に降り立ってから、早いもので既に30年以上の月日が流れました。今から思うと、あの時の1年間 (実質僅か9ヶ月) のブラジルでの経験が、その後の私の人生を大きく変えました。当時若干22歳、大学3年生を終えた私は、大学を1年間休学して未知の地、ブラジルへと渡りました。そして、そこで多くのことを学び、それらが今でも私の思考/行動原理の柱となっています。その後、大学を卒業してサラリーマン生活を始め、計12年間に渡る二度のブラジル駐在員生活を経て、定年退職もそう遠くない将来に迫って来ている今なお、あの頃の出来事やそこで学んだこと、苦労したこと等を鮮明に記憶しています。 

 私は、サンパウロ市内にある、日系人の集まりが主催する日本語学校で日本語教師としてお世話になりました。とは言っても、教師としての教育訓練を受けた訳でもなく、言語としての日本語についての知識や教養を持っている訳でもなく、ましてや、それをブラジル人相手にポルトガル語で教えるなど、今思えば途轍もなく無謀なことでした。自分としては一生懸命生徒 (子供から大人まで様々) に教えているつもりでも、ポルトガル語の誤り (発音から文法まで) を指摘され続けて終わる、どちらが「教師」なのか分からない日々が続きました。それでも、少しずつ慣れて行き、自分なりにやり方を考えるなど少しは学校や生徒たちに貢献できたのではないかと思います。また、生徒たちと親しくなり、それなりの信頼関係も生まれて来ると、単に教師と生徒という関係では無く、共に未知の国や言葉を学ぶ友人としてお互いに協力するという関係も出来たりして、教えるだけが教師では無いことも学びました。あの当時の生徒たちが今何処で何をしているのか全く分かりませんが、あの頃の私の拙い何らかの思いが少しでも今の彼らの人生に活かされていれば嬉しい限りです。

 一方、ブラジルでの生活は、日本に居た頃とは全く異なるものでした。日本語学校から「給与」として若干の報酬を頂きましたが、居住アパートの家賃と学校まで往復の交通費で殆ど消えるレベルの金額でした。つまり、食費に回す余裕が殆ど無く、これは周囲の方々のご厚意により解決した部分が非常に大きかった記憶があります。当時の私の収入は最低賃金の2倍で、日本円に直すと実質月間2万円にも満たない額でした。レストランなるものに行ったことも、タクシーに乗ったこともありませんでした。ブラジルは階級社会で貧富の差が大きく、どの階級に属すかでその生活、特に経済的な環境は大きく変わります。あの当時約1億5千万人の国民の6~7割が「最低賃金」またはそれ以下で生活をしていると言われていました。また、年間数千パーセントのハイパーインフレーションの時代で、お金の価値が日々見る見る下落して行く為、僅かばかりの収入の維持にも気を配らなければなりませんでした。しかし、この時の体験 (所謂低所得者層レベルの生活を肌身で感じたこと) が後に、駐在員としてブラジルに赴任した時に大きく役立ちました。

研修を終えて帰国し、就職活動を始めました。この時の会社選択基準は「ブラジルに事業所を持ち、ブラジルでの活躍の機会があること」でした。勿論サラリーマンである以上、希望叶わず全く別の道を歩む可能性も充分にあることはそれなりに理解していましたが、私の場合、幸運にも入社6年目に一度目のブラジル駐在を命じられ6年間、1997年に一度帰国し、2001年に二度目のブラジル駐在を命じられまた6年間、計12年間ブラジルの地で、主にブラジル国内での販売の仕事をしました。ブラジル全国/全州を訪れ、現在でも親交のある数多くのブラジル人の友人を得ることが出来ました。ここでは、学生時代のブラジルでの生活体験が大いに生かされました。それは、言葉の問題では無く (言葉については、最初は全くできず、相当苦労しました) 、前述の階級社会であるブラジルのかなり下の方の階層の生活体験でした。取扱商品が一般消費者向け商品であり、量や金額を稼ぐことに加えて、商品自体を普及させるには、富裕層だけでは無く、一般大衆 (=低所得者層) をターゲットにする必要がありました。この「大衆」層の生活実態は、ブラジル人ではあっても、同じ会社のブラジル人社員のようにある程度以上の階層に属する人々には実感が湧かないし、ましてや先進国・日本からやって来た普通の外国人駐在員には理解し難いものがあります。ここでターゲットに近い社会階層の生活実態を理解していることが強みとなりました。また、外国人で言葉は余り出来なくとも、ブラジル好きであることは伝わるようで、取引先や現地の方々から受け入れて頂き、仕事も生活も比較的スムーズに行き、どんどんと現地に溶け込んで行きました。これも、あの頃の体験のおかげでした。

影響を受けたのは私本人に留まらず、家族にまで及びました。一度目の駐在時に、長男と長女がブラジルで誕生、その後、長男は、2014年度に (現時点で最後の、OB二世初の) だるま会研修生として、とあるブラジルの日本語学校でお世話になりました。長女は、大学でポルトガル語を専攻、本年 (2016年度) 1年間のブラジル留学を予定しており、その後だるま会研修生として更にブラジルでの研修を希望しています。幾つもの偶然が重なった結果ではあるかも知れませんが、影響力の大きさには非常に驚いています。

 このように、たった1年間のブラジル研修/滞在がきっかけで、その後 (恐らく一生、そして子供の世代まで) ブラジルと関わり続け、普通の日本人またはサラリーマンでは得られないような充実した人生を送っています。もし仮にあの時の研修が無ければ、今頃全く別の、平均的な日本人サラリーマン人生を送っていたかも知れません。あの時偶然であったとは言え、1年間のブラジル研修のチャンスを頂いたことをとても感謝しています。

最後に、このような通常では得難い貴重な体験またはそのきっかけを、一人でも多くのこれからの世代の方々にも得て頂きたいと思います。これを読んで、我々に続いてくれる若い世代の方が一人でも多く現れてくれれば非常に嬉しく思います。

2016年01月06日()    1984年度研修生 吉田尚史

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