
それは薩摩との盟が成った後。
穏やかに流れる刻の中で、俺は持て余した感情の行く先を探していた。
† † †
「おはようございま……す?」
「おう、シノ。今朝も元気か?」
「は、はあ……」
朝餉の席に現れた晋作さんを見て、思わず絶句してしまった。そのあとから入ってきた桂さんにも驚かされて、私はただ口をぽかんと開けていた。
「なんだ、どうした」
いつものように私の隣に腰を下ろして、私の頭をぽんぽんと撫でる。そんな私を見て、桂さんがくすくすと笑った。
「晋作は本当に人が悪い」
「驚かせるのは成功だったな」
綺麗な手つきでお箸を取り上げる晋作さんを、私はじっと見つめるのを止められない。
「そんなに見られると穴が明いてしまうだろう?」
そう言って笑う晋作さんが眩しくて、思わず目を逸らして私もお茶碗を持った。だけど、視界の端で晋作さんを盗み見していた。
初めて見る、着流しの姿。いつもと違って落ち着いた色合いの着物は、地味だけど布の質はかなり良さそうに見える。その姿は初めて会う人のようで、あまりにも大人っぽくて……どきどきと心臓がうるさい。
寝るときは、みんな浴衣を着ているみたいなんだけど、晋作さんは寝る前には絶対に私に会うことはしなかった。朝だって、気がついたら私の枕許で私のスクバを漁ってたりするけど、そのときだっていつもちゃんと着替えている。だから……本当にこんな姿は初めて見るのだ。
「なんだ、小五郎。何を笑っている」
「いいや、何でもないよ」
桂さんが笑っているのは、絶対私のことだ。ちらっと桂さんを見ると、桂さんは本当に嬉しそうに私に笑いかけていた。この微笑みも、充分心臓に悪い。桂さんも、いつもの白っぽい着物じゃなくて、少し固そうな木綿の、濃紺の着物を着ていた。でもそれが更に桂さんの綺麗な顔を際立たせているように見える。
「おいっ」
晋作さんが怒ったようにそう言った。え、何ですか、と振り返ると、晋作さんの顔がすぐそこにあった。慌てて後ろに下がろうとするけど、晋作さんもそれに合わせて私にどんどん寄ってくる。
「お前、小五郎に見惚れてただろう。俺の嫁なら俺だけ見てろ」
晋作さんがそう言った瞬間に、桂さんが堪え切れずに吹き出した。
「小五郎! なに笑ってる!」
「い、いや、何でもないよ、晋作」
それでも、桂さんは笑いを止められないようで、ずっとお箸が震えていた。
見上げた冬の空はどこまでも青くて澄み切っていた。私の手を引いてぐいぐいと進んでいく晋作さんにちょっと足がもつれてしまう。
「さ、次はこっちだ」
待ってください、そう言おうとしたとき、桂さんが繋がれた晋作さんの手を引っ張った。
「晋作。焦る気持ちは分かるが、もう少しシノさんをちゃんと見てやれ。困っているだろう」
晋作さんが振り返る。慌てて私の傍に寄り、袂から手拭いを取り出して私の額を拭った。
「こんなに汗を掻いて……気づいてやれんで……すまん」
「い、いいんです! そんな、謝らなくても……!」
「もう少しゆっくり行こう。時間はあるのだし」
桂さんのひと言で、晋作さんは私の隣でゆっくりと歩き出す。
どうしても分からなかった。
さっきの小間物屋さんでは、晋作さんの見繕ってくれた簪や根付を買った。その前には布問屋さんでいろいろと布を広げられ、着物を仕立ててもらった。
これって一体何なんだろう?
「疲れただろう。甘味でも食っていくか」
晋作さんがそう言ったとき、くうっとお腹が鳴った。瞬間に晋作さんが吹き出し、桂さんは肩を震わせて笑いを噛み締めていた。ううう……恥ずかしすぎる!
「この先にお薦めの菓子屋があるんだ。行ってみるかい?」
お願いします! 私はそう叫んで、ずんずん先を歩いた。あとをついてくるふたりが笑っているのが背中越しに聞こえた。
桂さんが頼んでくれたお饅頭は餡の甘さが控えめで、少し甘いお茶にとてもよく合っていた。とてもおいしくて、私は満足の溜め息をついた。
「ふふふ、君の好みに合ったようだね」
どうして分かったんだろう? 首を傾げると、晋作さんも桂さんも私を見て笑った。ふたりにはいろいろとバレてしまうのが何だか恥ずかしくて、慌てて私は風呂敷包みを開いた。
その中の木箱を手にして、晋作さんが「つけてやろう」と簪を取り出す。黄色が鮮やかな簪を見世先で見たとき、まるで晋作さんの着物のようだと思った。それに見惚れていたら、晋作さんがそれを買ってくれたのだ。恥ずかしかったけど、後ろを向け、と言われて私はそれに従った。
「うん、お前の明るい髪色によく似合うな」
「そ、そうですか?」
ちょっと振り返ってふたりを見ると、晋作さんが嬉しそうに笑っている。
「あからさまに自分のものだと主張されているような気がしてどうかと思うけどね」
「それのどこが間違っている?」
晋作さんと桂さんのそんなやりとりがあまりにも恥ずかしくて、少し視線を外した。そのときだ。目の前に、浅葱色が飛び込んできた。
「おめぇは」
「あ、シノさん」
私の前に立ったのは、土方さんと沖田さん……! 一瞬で背筋が凍った。
「あ……こんにちは。今日はご一緒に見回りですか?」
土方さんと沖田さんに気づかれないよう、少し身体をずらして晋作さんたちとの距離を取る。そのまま、さり気なく席を立ってくれれば土方さんや沖田さんも晋作さんたちを気にはしないだろう。
「ここんとこ、ちょいと物騒だからな。今日は新撰組も総動員だ」
「そ、そうなんですか。お仕事、大変ですね」
そう言って笑ってみたけど、我ながらひきつっていたと思う。沖田さんが大きな溜め息をついて、瞬間的に身体が震えた。
「土方さん……そんなだから土方さんは分かってないって言うんですよ」
「なんだと」
沖田さんが、私に手を伸ばした。逃げようとしたのに、身体が動かない。どうしようどうしよう。私、捕まっちゃうのかも。少しひんやりとした沖田さんの指先が頬に触れて、そのまま簪をしゃらんと鳴らした。
「可愛らしいですね。今日はすごくおめかししてらっしゃる。いつも可愛いけど、今日はまた格別ですね」
「――は……?」
にっこりと微笑む沖田さんの顔に、一気に緊張感が解けた。
「総司。気軽に触るんじゃねぇ」
土方さんがそう言って沖田さんの手を払おうとした瞬間、私の身体が何かに攫われた。
「……わての姫に気軽に触らんでもらいましょか」
大きな腕が、私を包み込んで土方さんたちから隠してしまう。それが晋作さんの腕の中だと分かって、かっと血が頭に上った。
「……おめぇはなんだ」
冷たくて硬い、土方さんの声。詮議の声だ。どうしよう、どうして逃げてくれなかったの。だけど――この腕の中を嬉しいと思ってしまう。
「あ、梅之助さん。その後、お加減はいかがですか」
何だ、総司の知り合いか、土方さんがそう訪ねて、沖田さんが説明する。祭りの夜に、咳き込むこのひととシノさんに行き合ったんです、と。
「あんときはきちんとご挨拶もできんですんまへんでした。改めまして、わては大坂船場で商売させてもろうとります備後屋と申すもんでござります。今日はわての愛しい姫に贈り物をするために、こうやって京まで出向いてきましたんや」
その言葉に私は驚いて晋作さんを見た。
「ああ、そないな顔せんといて。可哀想に、わての姫がこんなに怯えてはる。壬生狼(みぶろ)は怖いやろ」
「てめぇ……聞き捨てならねぇな」
地を這うような土方さんの声に、柄が鳴る音が重なった。ダメ、そう言おうとした瞬間に、別の声が私を遮る。
「すんません、ウチの若(わか)旦(だん)さん、喧嘩っ早うて困っとるんです。申し訳ありまへん、どうか収めてもらえまへんやろか」
桂さんだ。桂さんまで、大阪弁で……。
「こちらこそ申し訳ない。ウチの副長とよく似ていますね、お互い苦労しますよねぇ」
沖田さんが、笑いながらそう言った。少し身を捩って晋作さんの身体の隙間から覗き見ると、沖田さんが土方さんの刀を抑えていた。
「それより、シノさんが〈姫〉って、どういうことです?」
「ああ、こんお人はつい最近、大坂道修町(どしょまち)の薬問屋に養女として入らはった、小西屋のいとさんにござります。江戸から来はって間もない内にウチの若旦さんがえろう気に入ってしもうて。こうしてシノさんの都合も考えんといつも振り回さはって、お目付けのわてもいつも気を揉んどります」
「え、そうだったんですか」
晋作さんの腕の力が緩められて、私はちょっと顔を覗かせて、ははは、と笑った。とりあえずは話を合わせておいた方がよさそう。
「それじゃあ、あのときの異国の服も……」
「ああ、あんときも往生しました。珍しい服を手に入れたからとウチの若旦さんがシノさんに着せなさったんですけど、慣れん京の町でシノさんが迷子にならはって……心細い思いをさせてしまいました」
「傍迷惑な話だ。おめぇの主人、よく躾とくんだな」
「へぇ。申し訳ござりまへん」
土方さんが、身を翻した。沖田さんも私に向かってちょっと手を上げて、そのまま土方さんのあとを追いかけていく。その姿が見えなくなるまで見送ったあと、はあっと溜め息をつく私に、桂さんがふっと笑った。
「心配かけてしまったね」
さ、暗くならない内に藩邸に戻ろう、そう言って桂さんが立ち上がり、晋作さんが私の身体を引き上げてくれる。
「あのっ、晋作さんも桂さんも大阪弁が喋れるんですか?」
帰る道々、気になって聞いてみる。
「ああ、船場言葉か? 俺達はいつ何が起こるか分からんからな、あちこちのお国言葉を使えるようにしているんだ」
「それでこんな格好をして出かけたんですか」
「念には念のため、なんだけどね。これは晋作が君を驚かせたかっただけだよ」
ふたりの少し後ろを歩く私に、ふたりが振り返って笑う。オレンジ色に染まった空を背に、晋作さんと桂さんが私に手を伸ばす。
「さあ。帰ろう」
「……はい!」
ふたりの間に、私は小走りに駆け寄った。
それから数日して、あのときに頼んでおいた着物が仕立て上がった。衣紋掛けに流されたその生地は、下が深い藍色で、途中がオレンジ色、上に行くほど白くなる色合いで、まるで夜明け空のように見える。
今日は晋作さんも桂さんも会合があって、帰ってきたのはついさっき、やっと遅い夕餉とお風呂が終ったところだ。
どうしよう、とその着物を目の前にして思う。
晋作さんは、この生地をすごく気に入っていた。絶対にお前によく似合う、そう言ってくれた。
どう……しよう。
† † †
水を飲んだら、少し咳も治まった。
風呂に入ると急にだるさがやってくる。身体がやたらと熱いのは湯のせいではなく、労咳の熱だ。
なんとか会合は乗り切ったが、かなり体調が悪いのは自覚していた。今晩は咳で眠れないかもしれない。
こんな夜は、無性にあいつの顔を見たくなる。甘えたくなる。あの微笑みを見ていれば、総てが溶けてゆくような気がする。
だが、こんな夜更けに。あいつの顔を見る、それだけでとても済むとは思えない。
悟られたくない。なのに、総てを晒してしまいたい。巻き込んでしまいたい。
そんなこと……できる訳がない。
傍にあった徳利をそのまま呷る。もう何も考えたくない。酔いに任せて、そのまま眠ってしまおう。
そう、思っていたのに。
月明かりに照らされて、障子に細い影が映る。
影でも分かる。そんな風にしてしまったのは誰だ。俺をこれほどにまで狂わせて、まだ俺に忍耐を強いるつもりか。
そのまま通り過ぎてくれるのを願って、俺は身(み)動(じろ)ぎひとつしなかった。ただ、その姿だけは目で追うのをやめられなかった。
影は俺の部屋の前で止まり、しばらく動かなかった。少し手を上げては下ろし、そしてまた上げる。
あああ。お前は。俺にどうしろと言っているんだ。
「……シノか」
堪え切れず、意を決して声をかけた。はっと息を呑む音まで俺の耳に届く。
「は、はい……」
「夜気は身体に障る。早く部屋に戻れ」
言葉を詰まらせたシノに、俺もそのまま何も言わなかった。じりじりと、刻の過ぎる音が耳許でうるさい。
早く。早くここから逃げてくれ。
そうでないと。俺は。
「……会合でお疲れなのに、すみませんでした。おやすみなさい」
そう言ったのに、それでもシノの影はしばらく動かなかった。何度も揺れ、惑い、俺の目を釘づけにする。傷ついた羽根でもがく雀を目の前にした猫のような気分だ。早く行ってくれ、そう願うのは自分が怖いからだ。
そして聞こえたのは、隠したつもりの溜め息だった。ゆっくりと戻ろうとするその影に、飛びかからずにはいられなかった。
「……シノ!」
障子を開けた俺の目に飛び込んできたのは、あのときにシノに見繕った着物だった。夜明け。夜明けの空。振り返ったシノの顔が、朝焼けのように染まる。
もう、何も考えられなかった。シノの腕を掴み、部屋の中に押し込む。戸惑うシノの姿を、じっくりとこの目に焼きつけた。
「あのときの、か」
「は、はい……今日仕上がったんですけど、早く……晋作さんに見せたくて……」
傷ついた雀が、運命を目の前にしながらも健気(けなげ)に微笑む。
ああ。
堪えるとは。待つとは。
これほどまでにも苦痛を伴うものだったか。
「よく……見せてくれ」
この世に未練は残すまいと、俺は自分の総てを自分の志のために使ってきた。
もし道半ばで散ったとしても、俺の後はきっと小五郎たちが成し遂げてくれる。
それはもう、「信じる」とか「信じない」などというものじゃない。
だから、俺はここまで走ってこれたんだ。ただ、ひたすらに前を向いて。
じっと、シノを見つめる。
それは、溜め息が出るほどシノによく似合っていた。
近々、俺達は長州に戻らねばならない。幕府との戦さに備えるためだ。
お前を連れてゆけば、おそらく俺はお前に最期を見せることになる。だから、ここへ置いて行こうと思った。
シノにしてやれる最後のことが、こうして姫のように着飾らせてやることだった。情けないが、これくらいしか思いつかなかった。いや、本当はそれさえも自分のためなのかもしれない。
俺は、遅かれ早かれ、ここであれどこであれ、お前を置いて逝かねばならんのだろう。それとも、お前が自分の世界に戻る方が早いのだろうか。
いつかお前が帰ったときに、友によき思い出として語れるような日々であればいい、そう思っていた。
未練は残したくない、だからこそ、この手を伸ばさないでおこう、そう決めたのに。
シノの両腕を掴む自分の手が、微かに震えているのが分かる。
どっちだ?
迷う。揺れる。この、俺が。
ただ一本の道でしかなかった俺の未来。この先は、落ちる先も見えない奈落の滝だ。その流れを変えてしまった、ただひとりの女。右へ左へと蛇行し、行く先も見えないその流れに乗ってしまいたくなる。その誘惑を、何度も何度も振り払った。そして俺は今、ここに立っている。
「に、似あってます、か?」
どっちだ?
今、ここで。お前を手に入れても。入れなくても。
きっと。
「あ、あの……こんなに近いと……着物、見えませんよ?」
困ったように笑うこの女が、どうしようもなく愛おしい。
「そうだな……今は、お前の顔を見ていたい」
低くそう言うと、シノの顔が真っ赤に染まる。
どちらにしても、きっと俺はこころを残す。
それならば。もう、覚悟を決めるしかない。
舵を、切れ。まだ見ぬ、未来へ。
「俺が見繕った着物だ、似合っていない訳がない。俺の、あかつき星……」
ゆっくりと顔を近づけると、シノの睫毛が震えるのが見えた。
「止めるなら今だぞ……今ならまだ、間に合う」
ずるいと分かってはいても、最後はシノに委ねた。手に入れたものにどうせこころを残すなら、最期に「お前のせいだ」と言って笑いたい。
睫毛が、その瞳を隠す。それが、シノの答えだった。
