
夕餉の後片づけも終わり、お茶を持って晋作さんの部屋に行こうとしたとき、びいん、と低い音が響いた。
ああ、晋作さんの三味線だ。
邪魔をしないようにそっと襖を開けて、部屋の入り口で音を立てないように座る。そのうちに、晋作さんの朗々とした唄が紡がれる。
誰かを想う、切ない恋の唄。
力強い三味線の音に合わせて唄う晋作さんの声は、本当に美しい。まるで、夢の中に居るような気分になる。開け放たれた縁側の向こうで、晋作さんが背を向けて唄う。篝火に照らされて、庭の小手毬がぼんやりと浮かび上がっている。
「弥生」
いきなり名前を呼ばれて、はっと我に返った。縁側で庭に目を向けたまま、晋作さんが三味線を弾きながら私の名を呼ぶ。
「はいっ」
「……江の浦の浜へ行け」
「……は?」
「俺はついて行かんからな。気をつけて行けよ」
江の浦の浜。ここからは歩いてそれほどかからないところだ。でも、いったいどうして?
「何かの用事ですか? じゃあ、小五郎さんと……」
「いや、小五郎は所用で出ている」
私は首を捻った。暗くなってからひとりで外出するな、っていつもうるさく言うのは晋作さんなのに。
「すぐそこなんだからひとりで行け。行けば分かる」
「……分かりました」
お茶を部屋に残したまま、私は立ちあがった。屋敷を出るまで、ずっと晋作さんの恋唄が聞こえていた。
三月。夜なのにかなり暖かい。私の知っている世界とは暦が違うのは、もうかなり前から気づいていた。
桜が咲いたのは二月の中頃だった。今では小手毬と藤の花が満開だ。
提灯で足元を照らしながら、海へ向かう。潮の音が、徐々に大きくなる。
まだ月が出ていないから、夜空は星で埋め尽くされている。この世界に来て、良かったと思うことのひとつ。こんな星空、私の世界では見ることができなかった。
そして――良かったと思うことのまたひとつ。人影に、どきりと心臓が高鳴る。
「小五郎さん……」
松林の向こうには、小五郎さんがいた。
「ご用はどうしたんですか?」
近づきながらそう言うと、小五郎さんはふふっと笑った。
「……まあ、これが所用かな」
「え?」
こちらにおいで、そう言って、小五郎さんは波打ち際へと歩く。私も、それに続いた。
遠くに目を遣ると、波のほとんど立たない海には降るように星が映っている。どこからが海でどこからが空なんだろう。私は、思わず溜め息をついていた。
「綺麗……」
これを見せるために? そう小五郎さんに顔を向けると、小五郎さんはにっこりと笑って、まあ、もうちょっと待って、と言った。
何も言わず、私たちはただ海を眺めていた。忙しい日々が嘘のように、静かな時間が流れてゆく。それがとても心地好くて、時折私の肩に触れる小五郎さんの腕がとても嬉しかった。
「あ……」
東の空に、月が昇る。真っ白な、大きな月。それを見て、小五郎さんが私の方に振り返る。
「立待月。いい月だね」
小五郎さんの背に、月が重なる。笑う小五郎さんの顔が、影になって良く見えない。
小五郎さんが、懐から何かを取り出した。それを私の手に乗せる。懐紙を開いてみると、それは……。
「これ……」
「うん」
それは、小五郎さんの、髪。癖のない真っ直ぐな、とても綺麗な髪。
「三月十七日は、君の生まれた日だと聞いた。何を贈ろうかといろいろ悩んだんだけど、これくらいしか思いつかなくて」
我ながら情けないね、と、小五郎さんが笑う。私は、無意識に首を振っていた。嬉しくて……何を言えばいいのか、分からない。
「……これから、何があるか分からない。そう遠くない先に、幕府が仕掛けてくると思う。万が一、私に何かあったとき、これは君に持っていてほしいと思った」
小さく呟く小五郎さんに、私は何度も首を振った。涙が溢れそうになって、とにかく首を振った。
「私の心は、いつも君の傍に居る。いつも、君と共に在る。だから――」
私の身体が、柔らかく包まれる。ぎこちなく抱き締めてくれる、小五郎さんの両腕。泣かないで、そう言う小五郎さんの声は、少し震えていた。
昇ってゆく月が、小五郎さんの髪を照らしている。そっと小五郎さんの袖を掴んで、私はその胸に顔を埋めた。
微かに、三味線の音が聞こえたような気がした。
