ブログ 〔 マニアック放言録 〕
2016.08.26
乃木坂46の「生歌」と「かぶせ」
私が最初に違和感を覚えたのは1980年代後半、ボン・ジョヴィがスーパースターに駆け上った時期。
大学時代は洋楽一辺倒、特にハードロック系中心で、観る歌番組はベストヒットUSAが中心。
特にボン・ジョヴィが大好きで、「You Give Love A Bad Name」や「Livin' On A Prayer」は丸2年聴き続けた。
来日して、確か「ミュージック・ステーション」に出演した時だったか。
ジョンのふとした動きで、かぶせ(口パク)であることが判明した。
その時の映像は、今も鮮烈に記憶に残っている。
あれは、口パクであることが分かるように、意図的にそう動いたのかもしれない。
ジョンの瞳が、悪戯っ子のようにカメラを覗いていた。
あれから30年。
今改めて、口パク問題に直面している。
男女関係なく、一般にアイドルと分類される人気グループでは、新曲初披露やTV初登場などで、
俗に「かぶせ」と称される口パクが、事務所の戦略として当たり前のように行われているらしい。
そう言えば、黄金期のモーニング娘。でも、プッチモニの歌がどのパフォーマンスでも同じに聞こえていた。
さて、なぜ今なのか。何でこの問題に今改めて直面しているのか。
それは、欅坂46の東京国際フォーラムにおけるデビュー直前の初単独公演のパフォーマンスだった。
てち(平手友梨奈)のソロ曲「山手線」で、まるでコーラスかのように、てち本人の声が重なって聞こえてきた。
これが、「かぶせ」という手法だった。本当は、判らないようにもっと上手くやるらしい。
早速ネットで調べてみたら、事務所の戦略的思惑があっての常套手段とのこと。
理屈では分かった。仕方ないとも思う。
しかし、今やTVでは数少なくなった生歌披露の機会に、口パクというのは気持ちの上で納得できない。
楽しみにして観ているのに、口パクで聞こえてくる歌はCDのまんまというのは、悲しい限り。
そこから私の、乃木坂46のパフォーマンスで、「下手歌探し」や「外れ音程探し」が始まった。
つまり、下手なら「生歌」、「ライブ歌唱」だということだ。
愛しの乃木坂ちゃんに失礼だが、やはり歌は下手だ。
あれだけビジュアルが飛び抜けているのだから、音痴には目をつむろう。
歌とヴィジュアルで人を魅了したアイドルは、松田聖子、中森明菜、浜崎あゆみ くらいまでか。
おっとっと、スピードも居た。彼女らのレベルは高かった。今のハロプロ系もしかり。
問題なのは、愛しの乃木坂ちゃんだ。
でも、いい。可愛いから許そう。
なぜかというと、可愛くなければアイドルではないからだ。
さっしー(指原莉乃)は、バラエティ番組のMCやゲストとしては大好きだが、
AKB48、もしくはHKT48で、アイドルとして見ると、完全に場違いな存在として浮いてしまう。
愛しの乃木坂ちゃんとの、あまりにかけ離れたビジュアルのレベルに、気分が悪くなってしまう。
アイドルという商売は、本人の努力などではなく、天性のヴィジュアルが9割方を決定するということだ。
ぶちゃいくは、タレントとして通用しても、アイドルではない。
ハロプロの、例えばエース級のモーニング娘。’16 は、確かに歌もダンスも素晴らしい。
聴いていて、観ていて、安心してパフォーマンスを楽しめる。
でもそれは、彼女らのアイドルとしての完成度を意味するものではない。
彼女らは、アスリートだ。歌が上手くて、踊れるだけなら、アスリートだ。アイドルではない。
だから、乃木坂ちゃんの前にはまっていたE-Girlsも、今はそれほど魅力を感じなくなった。
いくらダンスが上手くても、いくら歌が上手でも、ヴィジュアルが伴っていなければ、観ても仕方がない。
E-Girlsは、ダンスのためのダンスを行っている。
ダンスとは、ヴィジュアルを一層引き立てるための装置であり、アスリートのパフォーマンスではない。
そうは言っても、乃木坂ちゃんの生歌はヒドイ(生ちゃんは上手だけど)。
アイドルでも一応歌手なんだから、日々のトレーニングはしっかりと積んでほしい。
ただ、“生歌は下手”という乃木坂ルールのおかげで、
そのパフォーマンスが生歌なのかかぶせなのか、探ることができている。
やきもきせず、開き直って聴けるように、最初に「生歌」か「口パク」かを表示してくれたらいいのに。
口パクの時は、音楽に合わせたダンスパフォーマンスとして楽しむから。
乃木坂ちゃんなら、ヴィジュアルだけでも公共電波で拡散するに十分耐えうる存在なのだから。
さっしー、・・・・・・勘弁してほしい。吐きそうになる。
あなたが居なくても、HKT48は大丈夫だよ。