ニュースレター
2021.04.09
2011年 東日本大震災 インドネシアからのエール
<2011年 東日本大震災 インドネシアからのエール>
2011年3月11日
インドネシア・ジャカルタにいた私たちは我家でミーティングの最中だった。第一報はメンバーの携帯に日本からのもの。
日本で何かが起っている
慌ててテレビを付けNHK(日本の番組はこれしか見られない。)を観る。
田んぼだと思われる場所を黒い水が物凄い勢いで走っている?!
アレは何?誰も理解できなかった。次々と地面が黒い水に飲み込まれて行く。その前の道に軽トラックが走っている?あの車はどうなるの?
アナウンスで東北で大地震が起こり、津波が押し寄せている事がわかった。“これ津波なの?!”
津波が田んぼを走っている!?すぐに2004年のインドネシアで起こったスマトラ沖大地震の光景とダブった。あの時もテレビの光景が信じられなかった。これは本当に今日本で起こっている事なの?
ミーティングどころではない、すぐにみんなが日本への安否確認をするが、電話がなかなか繋がらない。
それからしばらくの間、日本からの情報に釘付けだった。
私たちはインドネシアにいて、何が出来るのだろう?いつもインドネシアを見て支援の矛先を考えている。ここにいて、こんな大災害に何が出来る?この未曾有の災害を見て、ここで通常を過ごしている訳にはいかない。でも、どうやって?
出来る事は募金活動しかないのかもしれない、でもどの様に?なかなか心が決まらなかった。
震災から1週間後くらい、ある知り合いの方が訪ねて来た。日本のために何かをしたいが、支援活動の経験がなくJ2が何かを始めるなら参加したいとの事。
支援活動としてみんなが集まって話し合った事で、一気に動き始めた!
ミーティングを繰り返し、何が出来るか、どんな形なら有効に募金を集められるか?話し合った。
メンバーたちのアイデアやツテを辿って、最終的にショッピングモールでの募金活動をする事に決定された。J2外の有志も加わり、チームを組み”Hati ke Hati”(心から心へ!)と名ずけ、募金活動がスタートした。Tシャツを作り販売もした。
インドネシアの方も募金活動に加わってくれた。
4月の第1週から土日と祭日を使って、スナヤンシティから始まりジャカルタの主要ショッピングモールに交渉し、毎回数名で渡り歩いた。シフトを組みTシャツを着て交代で募金箱を持ち、合計27回
初日、いつも客として歩いているモールで、「お願いしま〜す!」と声をあげるのは恥ずかしかった。でも、被災地で暮らしている方々のことを考えると、そんなのはすぐに吹っ飛んだ。
日本語・インドネシ語・英語。前を行く人々の顔を見て、言い換える。話しかけてくださる方々もたくさんいた。
インドネシアの方々は2004年のスマトラ沖大地震の時の日本からの応援を思い出し、日本に対するお返しの気持ちを募金箱に託してくれた。優しが心に沁みる時間だった。
ある方は一度募金をしてくださり、今はこれしかないと数時間後銀行からお金を引き出して再び来てくれた。
若い女の子が「明日もやっていますか?」と聞き、次の日またやって来て「嵐のファンクラブです!メンバーたちから寄付を集めて来ました!」と言って封筒を渡してくれた。
J2関連のヤヤサンからも寄付や励ましの寄せ書きなどをいただいた。(後に陸前高田で掲示)
人形劇の活動で幼稚園に訪問した時、募金を集めたと言って貯金箱(にわ鶏の形の瀬戸物)のまま渡されたこともあった。
テレビニュースを見たという人たちから、日本人の礼儀正しさや忍耐力を褒められた。インドネシアに住んでいて、よく「日本人は“discipline”だから見習いたい。」と言われていた。この時も何度もその言葉をかけられた。
その期間、何処へ行くにも折り紙を持ち歩き、暇があればランチのレストランでも車の中でも、家でも夜中まで鶴を折り続けた。そして寄付をいただいた方に折鶴をお礼に渡した。
またジャパンクラブの関係者で写真をしている方がいて、日本で撮った桜の写真を提供してくださった。
私たちはをれをポスターカードにして、折鶴と一緒に寄付のお礼として差し上げた。
メンバーの日本語学科の教え子に印刷会社の社長さんがいて、お願いしたらポストカードの印刷を無料でしてくださった。(それ以降もJ2の印刷物で大変お世話にもなりました。)
温かい言葉や気持ちそして募金に、何度も涙がこぼれ落ちた。
世界中が日本を応援していた。災害はあっては困るものだけれど、皆んなの応援は嬉しかった!これを絶対、日本へ届けなくちゃ!と感じた。
いただいた募金は施設への牛乳の寄付から始まり、福島での放射能線量計となり、障害者施設の車椅子用スロープ、陸前高田の施設のコミュニティ用プレハブにもなった。最終的に500万円近い募金が集まった。
7月、3ヶ月に渡る募金活動を終了し、最後に一番募金が多かったモールでお礼の七夕イベントを行った。
日本を象徴する文化の紹介、茶道・着物の着付け・書道・折り紙のパフォーマンスや体験。
インドネシアの方々は日本を好きな方がたくさんいて、本当に関心の高さを感じる。
丁度その頃、24時間テレビの取材陣が到着しイベントを見学に来てくれた。そしてイベントの直後撮影が行われ、その年の8月、24時間テレビでJ2netの活動が放映された。
2011年10月私たちは陸前高田を訪れた。被災地の様子は衝撃的だった。正直、恐ろしさを感じた。
関連の施設などを訪ね、出来上がったプレバプ小屋”和みホーム”も見学した。インドネシアでの27日間の成果だった。
最終日には同行した息子と一緒に瓦礫が残る民家の畑で瓦礫を集める作業に参加した。すでにだいぶ綺きれいに整地された様に見える土でも、掘るとガラスの破片やら細かい瓦礫が出て来る。1日作業してもバケツに数杯。気の遠くなる作業が続いていることを身に沁みて感じた。
当時、ジャカルタではビビット文庫という文庫を設置する活動も行っていた。設置場所への図書を寄付するため年に何度も本屋さんを訪れていた。その中で見つけた本で、“Kiamat sudah lewat!”と言う本を見つけ文庫に入れていた。その本を日本で活動するメンバーたちにも見せたところ、是非日本語に訳して紹介したい!と翻訳の希望があった。アメリカのNGOが出版したスマトラ島の北端、アチェで津波の被害にあった子どもたちの手記だった。インドネシアにあるNGOの支部に許可を申請し、日本語への翻訳を日本の翻訳グループが行い、印刷はジャカルタで行った。
邦題「奇跡は過ぎ去った」は日本とインドネシの関連団体などに配布し、またグローバルフェスタなど両国で販売も行った。
J2netはインドネシアに住む日本人から始まり、インドネシアと日本を繋ぐ小さいけれど架け橋のひとつとして活動して来ました。”Goton royon” 「助け合い」想い合う気持ちが、小さな橋を今も行き来しています。
2021年3月11日 10年目のこの日を静かに祈りの日としたいと思います。