合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2022.10.21

鉄道開通150年 ~ 鉄道と合気道開祖の逸話

なんでも今年は日本に鉄道ができて150周年の記念すべき年だそうです。ふと考えると、合気道開祖と鉄道に関する話がいくつかあるのでちょっと記しておこうと思います。

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まず、新橋~横浜間(現在の桜木町駅)で日本初の鉄道が開通したのは明治5年(1972)10月です。陸上の移動といえば徒歩か馬か駕籠(かご)であった「江戸時代」が終わってわずか5年後には鉄道が走り出したのですから、大変な時代の変化です。当時の一般の人々はさぞ驚いたことでしょう。合氣道開祖・植芝盛平翁先生はその11年後の明治16年(1883)12月に和歌山県で生まれています。

開業当時の汽車(英国製)

明治初期の横浜駅の絵(場所は今の桜木町駅)


開祖は明治34年(1901)、18歳で東京に出て商業と武術修業に取り組みますが、その頃には鉄道は日本全国に広く整備されつつありました。当然、若き開祖が東京に行く時も翌年に和歌山へ帰って来る時も汽車で移動したはずです。ただ、故郷の田辺(和歌山県)にはまだ鉄道が通っておらず、大阪~田辺間は海路(船)であったそうです。その後、兵役を経て北海道への移住、綾部(京都)への移住、東京への移住、全国各地への出張指導、岩間(茨城)への移住と様々な場面で幾度となく長短の汽車移動をしたことでしょう。また東京、京都、大阪、愛知などの都市部では多くの路面電車(明治30年ごろから普及)が走っており、特に東京で武道の専門家として活動していた時期(昭和2~17年ごろ)にはこれも度々利用していたようです。そういった中で、汽車や路面電車での開祖の逸話がいくつか伝わっています。

都内を走ったの路面電車

路面電車の中

・汽車で開祖と向かい合わせで座ったところ、扇子を渡されて「わしにスキがあったらそれで打ってみろ、できたら十段にしよう」とい言われたが、開祖はウトウトしていても打とうとするとパッと目を覚ましてついに打てなかった(ちなみに開祖は座席に正座していたそうです。古い鉄道写真、絵画にはそういった乗客が見られます)これは後に合氣道養神館を開いた塩田剛三先生の回顧談です

・車内で通路をはさんで反対側に座っていた老人が取り落としかけたステッキを開祖は立ち上がりもせずにいつの間にか手に取っていた。

・車内で開祖の懐(ふところ)を狙ったスリの手を掴んで動けない状態にしていた。駅に着いたところで手を放してやったらスリは慌てて逃げていった。

・改札を通る際、古武士の如き威厳のある開祖は切符の確認を求められずスタスタ素通りしていた。(切符は遅れてついてきた弟子が持っていました)

また武勇伝ではありませんが、大正期(開祖30歳代)の北海道開拓時代には、北海道東北部の旭川~網走間を走る「石北線」敷設運動の代表者として奔走しています。仲間たちと生活する地域を発展させたい、そのためには鉄道が必要である。という強い思いがあったのでしょう。開祖の社会活動家としての一面を感じられる話ですこの運動は実を結び、昭和7年(1932)に旭川~網走間は全線開通しました。

昭和初期の開祖(中央)

鉄道は近代日本の発展に非常に大きく貢献しました。陸上の人と物資の輸送力において、人と馬が主であった江戸時代とは量もスピードも桁違いです。更に食料、資源、工業生産品などの生産地と港町を鉄道で直接つなぐことで、海外にまで及ぶ効率的な輸送網を作ることができました。一昔前は「マイカーブーム」などという言葉もあり、自家用車を乗り回すことがトレンドのようにもなっていましたが、近年では電車はガソリン自動車に比べて環境負担の少ない乗り物であるとされてその存在価値が再評価されているようです。

戦前から合氣道が全国で稽古されたことも、鉄道による移動能力の向上が大きく関係したと思います。江戸時代までの武術にはかなり地域性があり、多くの武術流派は限定された地域の範囲内で活動していました。例えば新選組局長の近藤勇が四代目宗家を務めた「天然理心流剣術」は江戸と多摩、つまり現在の東京都内が活動範囲で他の地域ではほとんど存在すら知られていなかったと思われます。「香取(千葉県)神道流剣術」、「鹿島(茨城県)新当流剣術」、「馬庭(群馬県)念流剣術」、「尾張(愛知県)貫流槍術」など流派名に地名が含まれていることも少なくありません。

もっとも、古来の武術は技法をめったに人に知らせないものでした。実戦で不利になるので当然です。ただ泰平の江戸時代にはその観念も薄れ、もっと自身の力量、流派を世間に広めたい・・・と願っていた兵法者は少なくありませんでした。そこで木刀、竹刀を担いで各地を巡った兵法者も多かったようですが、基本的に徒歩の旅ですから移動能力には限界があります。例えば江戸(今の東京)から大阪に移動するには片道で10日以上かかりました。しかも大雨でもあれば川が増水して渡れなかったり道が泥沼のようになって歩けなかったりで更に日数がかかりました。冬になれば雪の積もる北国では交通が遮断されました。

鉄道開通の少し前、江戸後期の旅の様子

しかし昭和初期には東京~大阪間は汽車で一日あれば移動できましたから、開祖は東京の本部道場(隣が自宅)から毎月、時にはそれ以上の頻度で大阪、京都、兵庫などの指導先を訪れ、九州方面まで足を延ばすこともしばしばであったようです。合氣道は殺傷を目的とした武術ではなく、天地人を結ぶ和合の武道ですから、これを教え広めることは開祖にとって「神から与えられた使命」と感じていたと思われます。鉄道の存在がその一助となり、現在自分たちが全国各地、更には海外でも合氣道を稽古できる世の中となっているのですからありがたいものです。

ただ、どんなものにも良い面と悪い面があり、鉄道も敷設のために森を切り開き、山を崩し、海を埋め立て、レールや車両、駅舎の製造のための資源、燃料となる石炭や石油を大量に消費し、いま槍玉にあがっている二酸化炭素を排出し、地球環境に多大な影響を与えて来たことも忘れてはならないでしょう。

また軍事においても鉄道は兵士、兵器、軍事物資の輸送を担い、近代の戦争で重要な役割を果たして来ました。一方そのために鉄道が主要な攻撃目標となることがあり、民間人も多数が犠牲になっています。東京西部のJR高尾駅には今でもアジア太平洋戦争中の米軍戦闘機の攻撃による弾痕が残っているそうです。

鉄道の歴史も決して明るいものばかりではありません。

任地までの無料乗車券が付属された戦中の召集令状

とはいえ、自分も道場への行き帰りはいつも電車を利用しています。うちと高津の道場は直線距離でも15㎞以上離れていますから、自動車を使わない自分としては、電車が止まってしまうと非常に困ります。それ以外でも数㎞以上の移動にはほとんど電車を利用していますから(それ以下は徒歩か自転車です)、本当にお世話になっています。しかも電車なら本を読んだりメールを打ったり(寝たり)他の作業をしながら移動することもできるから便利です。

自分は歴史や伝統、古いものが大好きなアナログ人間で、さらに心情的には人工物より草木や動物の方に思いを寄せがちな方ですが、鉄道の他にも様々な「近代文明」のお世話になって生活し、合氣道を続けられているということも忘れてはいけないな・・・と、この文章を書いていて改めて思い至りました。

人と人の作ったもの、動植物、地球の海と大地、太陽、月、宇宙の星々、全ての物に感謝の念を忘れずに、ですね

熊本に行くと路面電車によく乗っています


合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

おまけの「くまモン駅長」さん。。

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