合氣道真生会川崎高津道場 活動報告
2022.10.12
中野とハワイと合氣道
また「なんだそりゃ?」と思われそうなタイトルですが、11月20日(日)に東京中野のハワイアンレストラン「マハロア」で、フラサークルのパフォーマンスに便乗して演武を行うので、合氣道と「中野」そして「ハワイ」との関連について知っていることを記しておこうと思います。
イベント詳細→ https://ameblo.jp/tomomi-infinite/entry-12767721869.html
~ 演武練習中 ~
東京都心の主要駅の一つである新宿駅からJR中野駅には中央線に乗ってほんの数分で着きます。
その中野駅のすぐ近くにアジア太平洋戦争(-1945)が終わるまで「陸軍憲兵学校」がありました。「憲兵(けんぺい)」とは軍隊内の警察のような職務です。憲兵学校には現職の兵士が志願に基づいて入校し、憲兵となるための半年~10ヶ月の教育を受けていました。合氣道開祖・植芝盛平翁先生は戦前から戦中の数年間、週2回ほどこの憲兵学校に指導に訪れていたそうです。なお憲兵学校の近くにはスパイ養成機関と伝えられる「陸軍中野学校」もありましたが、これは軍内部でも一部の人間しか知らない極秘機関であったそうです。
アジア太平洋戦争中の日本軍兵士 1942ごろ
憲兵学校では若い兵士たちが開祖の腕試しをしようと徒党を組み、木刀や木銃を手に物陰から飛び出して襲いかかったものの逆にみんな投げ飛ばされてしまった、といったエピソードも伝わっています。戦後になって開祖と再会し、「実はあの時の兵士の一人です」と名乗り出た人もいたそうです。
昭和17年(1942)に開祖の内弟子として入門した砂泊諴秀(すなどまりかんしゅう)先生(1923-2010:万生館合氣道前館長)は憲兵学校への随行役を務めていたことを武道雑誌のインタビューで語っています。そこで指導された技は二ヶ条や三ヶ条、小手返しといったしっかりと相手を制する技であったそうです。軍隊、それも戦時中という当時の状況から求められたことでしょう。特に憲兵は職務の性質上、軍紀違反を犯した兵士を格闘戦で取り押さえなければならないような場面も少なからずあったかもしれません。
武技の戦争利用は本来の合氣道の理想から外れますが、砂泊先生はそこで手本の相手役として開祖の技をしっかり受けられたこと、屈強な兵士たちへの指導を手伝ったこと、稽古外の即席演武で形の定まらない柔らかい技でポンポン投げられたことなどが後の自身の合氣道に大きな影響を与えたとしています。
〈 憲兵学校跡に建つ中野区役所 〉
〈 砂泊諴秀(すなどまり かんしゅう)先生 〉
ハワイには戦前から多くの日本人が移住していました。ハワイの象徴ともなっているアロハシャツは浴衣(ゆかた)を、ビーチサンダルは草履(ぞうり)をアレンジして作り出されたものです。しかし昭和16年(1941)12月、日本海軍はハワイ真珠湾の海軍基地を急襲し、日米は泥沼の戦争にのめり込んでいきました。ハワイ在住の日本人、日系人には米国側から厳しい目が向けられたということです。
そうした歴史を経て、戦後にはハワイでも合氣道普及が始まり、昭和36年(1961)の春に開祖も指導に赴き、一か月余り滞在しました。戦前には中国北部にあった満州国に何度か指導に赴いていますが(満州国ではラストエンペラーこと皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)から絶賛を受けたという逸話があります)、戦後に開祖が渡った海外はハワイ以外には知りません。
〈 マウイ島(ハワイ)に立つ開祖 〉
開祖はハワイで「銀の橋をかけに来た」と語ったそうです。「合氣道で友好の輪を広げに来た」といった意味ではないかと思います。現地でどのような稽古を行ったかなど詳しいことはわかりませんが、後に指導者から「門人たちの稽古態度がよくなった」と報告があったそうです。なおハワイから戻って一か月ほど後には現在我々合氣道真生会本部のある熊本を訪れ、盛大な演武会と熊本支部長であった砂泊諴秀先生及びその門下生たちへの指導を行っていますので(なお、この際に砂泊先生は開祖より合氣道九段を允可され、「九州師範長」に任命されたということです)、この時期の開祖は非常に活発であったようです。
果たして開祖がハワイでフラの実演を見たかどうかわかりませんが、古来よりハワイには全てのものに精霊(マナ)が宿るという観念があり、フラには神や自然への敬意と感謝が込められているとされます。これは合氣道、そして日本の伝統的信仰とも深く通じるものであるように感じます。
今回の演武でも、合氣道がただの格闘術ではなく、天地の理に即した和合の精神に基づく武道、世界を友好でつなげる「銀の橋をかける武道」であることを伝えられたら嬉しいと思っています。
合氣道真生会川崎高津道場 吉見新
~ 追記 ~
江戸時代前半の一時期、現在のJR中野駅周辺には「御囲い(おかこい)」という野犬保護施設がありました。
江戸幕府五代将軍・徳川綱吉公(1646-1709)が「生類憐みの令」の一環として作らせた施設です。広大な敷地で何万匹もの犬が食事と寝床つきで自由に生活し、膨大な経費を消費して幕府の財政に重い負担をかけました。「犬公方(いぬくぼう)」とも呼ばれ、15代の徳川将軍中で特に悪評の高かった綱吉公の治世も最近では見直されつつあるようです。しかし多くの問題、矛盾を抱えていたことはやはり否定できないでしょう。
ただ、それまでの戦国時代以来の殺伐とした気風を改め「仁」(思いやり、いつくしみ)に基づく政治を目指した点においては、「合氣とは愛なり」「合氣にて、よろづ力を、働かし、美しき世と、安く和すべし」という合氣道の心に通じるものがあるかもしれません。
現在の中野駅前、見渡す限りが御囲い跡
御囲い跡を示す犬たちの像