合氣道真生会川崎高津道場 活動報告
2022.05.21
植芝はつ さんのこと ~合気道開祖の奥様
植芝はつ さん(1881-1969)とは、タイトルの通り合氣道開祖植芝盛平翁先生の奥様です。合氣道における開祖の存在は非常に大きく、様々な形で脚光を浴びているのに対し、一生を共にした奥様のことはほとんど話題に上がることはありません。しかし自分は、今日の合氣道の発展を考える上で、開祖を隣で支え続けたはつさんの存在は大きいと思っています。
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ところで、この文章を書く前にはつさんの敬称について悩んだのですが、合氣道をされていたわけではないので「先生」というのはちょっとふさわしくない気がするし、「様」というのも仰々しいし、文語的に「女史」「刀自」というのも堅苦しい感じがするので、今回はいささか無礼かと思いながらも「はつさん」と呼ばせていただこうと思います。
植芝はつさんは明治14年(1881)に開祖と同郷の和歌山県田辺市で生まれています。明治16年(1883)の生まれの開祖より2歳年長です。旧姓は「糸川」で、開祖の母親の旧姓も糸川なのではつさんは開祖の従姉(いとこ)にあたるのかもしれません。少女時代の様子はわかりませんが、明治期の中級農家の女性は初等教育を終えると結婚するまで家の仕事を手伝うのが一般的でした。
その「糸川はつ」さんと開祖が結婚したのは明治35年(1902)の10月で、12月生まれの開祖はまだ18歳、はつさんは20歳でした。男性が18歳で結婚というのは当時としても少し早いと思います。しかも開祖は兵役に入る目前という、いささか半端とも思われる時期の結婚でした。なぜそういう段取りになったのかはわかりませんが、①はつさんの実家が世間体を気にして早く結婚させたかった。②若い開祖が兵営で悪い仲間の影響を受けて夜遊びなどを覚えないよう腰を据えさせたかった。③当時は日本とロシアが一触即発の緊張期だったので(1904日露戦争勃発)開祖が戦地に赴ことを危惧してあわよくば植芝家の後継者を作っておいてもらいたかった。④そもそも兵役に入ることを思いとどまらせたかった(開祖は身長不足で兵役免除対象者でした)。・・・などといった理由が考えられます。真相はわかりません。なんにせよ、結婚してから間もなく開祖は兵役期間に入ってしまいます。国内での駐屯地は和歌山の隣県の大阪だったので、はつさんは度々面会に来ていたようです。
開祖とはつさん (1937ごろ)
明治39年(1906)に開祖が兵役を終えて、しばらくは共に故郷の田辺で過ごすことになります。植芝家は中規模の農家だったそうなので、おそらく家業の農業に勤しんでいたのでしょう。この時期に長女の松子さんが生まれています。しかし明治45年(1912:同年に大正と改元)になると、開祖は同郷の若者たちを引き連れて北海道開拓に乗り出します。はつさんも少し遅れて開祖たちのいる北海道北東部の白滝村に入ります。当時の北海道は大部分がまだ未開の原野でした。そこをほぼ人力のみで切り開いて田畑にするのです。寒さに強い農作物の開発も十分に進んではおらず、特にはじめの数年は厳しい生活が続いたようですが、徐々に成果が上がって生活も安定し、開祖は30歳代ながら村会議員にも選出されていました。長男の武盛さん、次男の国治さんはここで生まれています。そのような生活が大正8年(1919)の暮れにまた一変します。開祖は父親が危篤であるとの知らせを受け、急ぎ故郷に向かいますが、数奇な巡りあわせでそのまま北海道には戻らず、翌大正9年(1920)春には一家で京都郊外の綾部に移住することになります。
この綾部への移住はあまりに想定外なことでさすがにはつさんも反対したそうです。既に3人の子供がいるのに綾部での生活の保障はほとんどないのですから。しかし結局は開祖の強い意志で綾部に移住することになります。綾部での生活は信仰団体の一員として農耕や社会奉仕活動に取り組む日々でした。綾部では大正10年(1921)に三男の吉祥丸さんが誕生していますが、長男と次男は幼くしてここで亡くなっています。残念なことですが、今に比べれば医療が未発達であったこのころは、子供が幼いうちに亡くなることは珍しくありませんでした。開祖の母親、つまりはつさんの義母もここで亡くなっています。しかしこの綾部で開祖の本格的な武道家としての道が始まります。開祖は大正9年(1920)に自身の初の道場である「植芝塾」を開き、主に団体の仲間たちに武道の指導を始めます。その卓越した実力は徐々に外部にも知られるようになり、綾部から近い舞鶴の軍港から稽古に来ていた海軍の高官たちの働きかけによって東京で武道の専門家として活躍する道が開かれました。
昭和2年(1927)には一家で東京に移住し、昭和6年(1931)には新宿区若松町に現在の合気会本部道場の前身となる「皇武館」が建設されます。開祖一家のお住まいもその隣に造られました。
皇武館での開祖(1931ごろ)
この時期の開祖の活躍は輝かしいもので、それに伴って賓客が盛んに来訪します。はつさんの人生でもっとも忙しく緊張を強いられる日々であったのではないかと思います。開祖の関係者や門人の中には、例えば複数回にわたって首相を務めた山本権兵衛氏や近衛文麿氏、海軍大将で連合艦隊司令長官も務めた竹下勇氏や高橋三吉氏、元薩摩藩主島津公爵家のご令息、元江戸幕府将軍徳川公爵家のご令息、元加賀藩主前田侯爵家の当主で陸軍中将の前田利為氏、東京大学医学部教授の二木謙三博士、剣道界の重鎮である中山博道氏、教育者で柔道の創始者である嘉納治五郎氏、などなど、政財界、陸海軍、文化芸術界の要人がぞろぞろいましたので、気を抜くことができません。
そんな中で、台所の女性たちとはつさんが時折お客様の帰った後にごちそうを盛り付け直して「二次会」を開いたというちょっと微笑ましいエピソードも残っています。そこに開祖が加わったこともあったそうです。道場では鬼のように怖かったという当時の開祖も、そんな時には優しい笑みを浮かべていたことでしょう。自分もぜひその二次会に参加したかったです・・・(笑)
この頃の開祖は東京での稽古の他に近畿地方、九州、更には中国北部にあった満州国にまで指導、演武に赴く忙しい日々でした。月の半分も家にいない時期もあったかもしれません。一方で植芝家の台所事情は決して豊かではなかったといいます。開祖はお金には無頓着で指導の謝礼を受け取らないようなことも多く、それでいて貴人との交流で出ていくお金は少なくありません。二人の子供の養育に、当時は何人もいた内弟子(住み込みの弟子)の生活の面倒も見なくてはいけません。そんな植芝家の台所を切り盛りしていたのがはつさんでした。
しかし次第に戦争の影が濃くなり徐々に道場に来る人々も減り、開祖とはつさんも戦火を避けて昭和17年(1942)ごろに茨城県の岩間に移住します。既に二人は60歳前後になっていました。
岩間は今でも駅前からすぐに農地が広がるのどかな土地で、貴人の訪問もなく、しばらくは東京時代とはまるで違った穏やかな生活であったと思います。ただこの頃に開祖は大病をしたとされていて、当然はつさんは懸命に看病にあたったと思われます。やがて開祖の病も癒え、戦争も終わると岩間に開いた道場にも新旧の門人が集まりにぎやかさを増していきます。開祖はまた東京の本部道場の他、全国、さらにはハワイにまで出張指導に赴く忙しい日々となります。
岩間の道場
開祖ご夫妻が住んだこともあるという道場隣の建物
ところで、前述のごとく開祖は武道家として戦前から各地を飛び回る生活をしていましたが、はつさんがその旅に同行したという話はあまり伝わっていません。おそらく開祖に代わってしっかり家を守る役割を担っていたのでしょう。そんなはつさんがいたからこそ開祖は思い切って活動できたのではないかと思います。
二人は昭和40年(1965)ごろまでは岩間での生活を続け、80歳を過ぎて再び新宿若松町に戻ります。息子夫婦や孫に囲まれた生活でした。開祖が公の場ではつさんのことについて語ることはほとんどなかったようです。明治生まれの男性としては普通のことなのでしょう。しかし開祖が外でどんな御馳走を出されてもはつさんの料理以外は「おいしい」と言わなかったという話などから、表には出さない二人の間柄が感じられます。昭和43年(1968)10月に日比谷公会堂で行われた演武では、シーンと静まる会場の中、開祖の白袴がビリッと破れた拍子に「うむ、ババ(はつさん)に叱られるわい!」と大声で叫んで会場を大いに盛り上げたというエピソードもあります。
日比谷公会堂での演武からおよそ半年後、昭和44年(1969)4月26日に開祖は85歳で亡くなりました。そして、そのちょうど二か月後の6月26日に、はつさんは87歳で亡くなります。正に人生のほとんどを開祖と共に歩んだ生涯でした。
はつさんの言葉はほとんど記録に残っていませんが、生活はなかなか安定せず、常人には理解の及ばない行動も多かった開祖と共に過ごす日々は驚きの連続でご苦労も絶えなかったであろうと推察されます。それでも開祖を傍で支え、家を守り続けたはつさんがいたからこそ今日の合氣道があるのではないかと思います。いま合氣道を稽古する一人の人間として、心から感謝の念を捧げたいと思います。
開祖とはつさん (1963ごろ)
合氣道真生会川崎高津道場 吉見新