合氣道真生会川崎高津道場 活動報告
2022.05.14
合気道と柔道、剣道
柔道と剣道は明治期から日本武道の中心的な存在であり、合氣道とも大きく関わりがありました。しかし、その関わり方には柔道と剣道でかなり違いが見られます。たまに道場でも話題に挙げることなので、ちょっとまとめておこうと思います。
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はじめに合氣道開祖・植芝盛平翁先生が経験した武術、武道で伝わっているものを大まかに記しておくと、まず明治35年(1902:開祖18歳)ごろ、東京で働きながら起倒柔術と神陰流剣術を稽古します。続いて大阪での兵役中に銃剣術を訓練すると共に兵営外で柳生流柔術を稽古し、兵役を終えて戻った故郷の和歌山で柔道を稽古しています。開拓業に取り組んだ北海道では大正4年(1915:31歳)から大東流柔術を修業し、大正9年(1920:36歳)に初の自身の道場である「植芝塾」を京都郊外に開きます。昭和2年(1927:43歳)ごろに拠点を東京に移し、本格的に武道の専門家としての道を歩みつつ門弟から柳生新陰流剣術を教わり、鹿島新当流剣術にも入門してその理法も学びます。そうした中で既存の武術・武道の枠組みを超えて自身が理想とする武道を追い求め、それが後に「合氣道」となっていきます。(※武術の名称は主に「武の真人~合気道開祖植芝盛平伝」(砂泊兼基著:たま出版)の記載に準拠しています。)
このように武道の世界で活動していく中で開祖は柔道、剣道とも様々な形で関わっていくことになります。
柔道、剣道の成り立ちを簡単に記しておくと、柔道(講道館柔道)は天神真楊流柔術と起倒流柔術を修業した嘉納治五郎氏(1860-1938)が技法を分析・整理し、試合方法を研究すると共に近代教育の理念を取り入れて明治15年(1882)に東京で創始しました。合氣道開祖が生まれる1年前のことです。初期の頃はお寺の建物の一部を借りて道場とし、門人もわずかであったようですが、東京帝国大学(現在の東京大学)出身の嘉納氏の教育者としての活躍もあって明治30年代頃には国内で最も盛んな徒手武道に発展し、徐々に海外にも広まって大正~昭和初期には既に日本武道を代表する存在となっていました。
剣道は柔道のような特定の創始者や創立記念日はありません。剣道のルーツである剣術は江戸時代の半ばまで数多くの流派、道場ごとでほぼ完全に分かれて稽古されいました。稽古の方法は木刀か「刃挽き」という刃をつぶした刀、または真剣を用いて定められた形を反復練習して技法を習得するというもので、試合は命がけになるためにほとんど行われていませんでした。それが江戸時代後半に竹刀と防具が改良され、それに伴う新たな技法と試合方法が開発されたことで流派や道場の垣根を越えた交流稽古が行われるようになり、特に明治期以降は徐々に流派の区別が薄れて共通の技法とルールに基づいた「剣道」の形が成立していきました。なお流派はなくなったわけではなく、それぞれの理念と技法を守り、剣道とは違う在り方で現在も継承されています。
ただ、「剣道」も戦前と現代ではその在り方が大きく違います。最も明確なのは「真剣(刀)」を使うことを想定しているか否かです。明治期~戦前には一定クラス以上の軍人や警察官は刀を装備していたので、実用武器として十分にその操法を訓練している必要がありました。竹刀での打ち合いはその練習方法の一つであって、それと並行して木刀や真剣を用いた形稽古や居合術が重要視されました。しかし現代の剣道では刀を使うことは全く想定されておらず、防具を着けて竹刀で打ち合う「競技」の勝敗がほぼその全てとなっており、古流剣術と現代剣道は理念、技法において大きく違ったものとなっています。
明治期の軍人像 (熊本)
合氣道開祖はその武道人生を通じて剣への関心が強く、「合氣道の技は剣の理から生まれた」といった言葉も遺しています。同時代の優れた剣道家たちとも盛んに交流しており、特に大正~戦前の剣道界を代表する存在の一人であった中山博道氏との深い交流が知られています。中山氏の門人である中倉清氏は植芝家の養子に迎えらえていた時期もあり、既に優れた剣士であった清氏に合氣道の宗家を継承させる考えもあったと言われています。実子の植芝吉祥丸氏も少年の頃は剣道を稽古したそうです。開祖が昭和6年(1931)に東京で開いた「皇武館」(現在の合気会本部)では日常的に剣道も稽古されており、皇武館所属の剣士たちは大会で好成績を修めていたと伝えられています。一般には合氣道は「徒手武道」と認識されていることも多いですが、本来の合氣道は剣や杖を用いる武器術でもあり、開祖による剣杖の演武映像も多数残されています。
剣の稽古を行う開祖 (昭和30年代頃)
川崎高津道場の稽古
柔道については、開祖の門人の中には初期の頃から富木謙治氏のような柔道の実力者が少なからずいました。柔道は大正期には学校教育にも導入され、昭和初期には日本国内の徒手武道は柔道一色に近い状態になっていたようなので、初期の開祖の男性門人の多くは柔道経験者であったと思われます。昭和5年(1930)には嘉納治五郎氏自ら開祖の元を訪れて稽古を見学し、「これこそ私が求めた武道だ」と語ったとも言われています。後に嘉納氏は自身の門下から望月稔氏らを研修生のような形で開祖の下に入門させています。その後も嘉納氏との親交は続いたとはいえ、青年期の一時期を除くと開祖の方から積極的に柔道と関わった様子は感じられません。開祖はおそらく自身の理想を追求していく上で柔道とは違う武道の在り方を意識していたのではないかと思われます。
技法面から見ても、剣と合氣道とのつながりは様々な面で強く感じる一方、柔道の影響を感じることはほとんどありません。しかし現代では一般に合氣道は体術(徒手武道)というイメージが強いためか、柔道と類似視されることが多いようです。それどころか、ポスターにどこかから転用したのであろう柔道のイラストを用いている合氣道の道場までありました。この道場の指導者は合氣道をなんだと思っているのでしょう?
ところで、合氣道の創始期から現代まで柔道を含め様々な武道や格闘技を経験してから、あるいは同時並行して合氣道を稽古する方が多くいます。そこで一つ気を付けなければならないのは、合氣道の成り立ちや理念をしっかり学ばず、安易に他のものの枠組みの中で合氣道を捉えようとすると、中途半端ところで理解がストップしてしまうということです。そうした事情によって、開祖が合氣道から除外した他の武道・武術の技法をそうと知らずにわざわざ付け直して「合氣道を発展させた」と思い込んでいる人たちも少なからずいます。
合氣道開祖は様々な武術・武道を修業し、そこから飛躍して自身の理想の武道を追求しました。それにも関わらず、従来の枠組みの中だけに合氣道をはめ込もうとしていれば、その真髄に到達できるはずもありません。それではせっかくの様々な経験がプラスになるどころか逆に自らの発展を阻む見えない足かせになってしまいます。更には合氣道を開祖が目指した理想と全く違う方向に捻じ曲げてしまうかもしれません。
開祖が目指した真の合氣道を理解するためには、どこまでも学び続け、常に固定観念に縛られない自然な心で真理を探求する姿勢を失ってはならないと思っています。
その姿勢は、武道に限らずこの世界のいろいろなことを考えていく上でも大切なことではないかな、と感じます。
自分もこれ以上、へその曲がったガンコおやじ化を進行させないように、心のアンチエイジングに努めないとな・・・と思います。まぁ、知能レベルはいつでも5歳児以下なんですけどね・・・。
合氣道真生会川崎高津道場 吉見新
~ 追記 ~
もう一つ、現在では日本武道の代表の一つになっている「空手」は江戸時代まで外国であった琉球王国(沖縄)で発展したもので、戦前の頃はまだマイナーな武道でした。開祖は演武などを目にする機会はあったと思いますが、相互の関わりは少なかったと思われます。
ところで、最近よくメディアで「沖縄の本土復帰50年」を祝う言葉を耳目にしますが、自分はちょっと違和感を覚えています。そもそも、沖縄にとって日本は「本土」なのでしょうか?上にも書いたように沖縄は琉球王国という一つの国でした。それを明治期に日本政府が問答無用で強引に併合した歴史があり、国王であった尚氏は首里城を奪われて東京に強制転居させられました。
16世紀初頭ごろの琉球王朝の様子
沖縄の人々は習俗や言葉の違いなどから「本土」の人間よりも劣る存在と差別され続け、アジア太平洋戦争では勝手に「本土を守る最後の壁」と位置付けられて地獄の戦場となり10万人以上の島民が死亡、戦後は米軍に割譲されて広大な基地が置かれ、さんざん日本政府の都合に振り回されて苦しんで来たのです。
「本土復帰」という言葉を、当の沖縄の人々はどう感じているのでしょう?
沖縄に上陸する米軍 (1945年)
米軍の攻撃で廃墟となった那覇市街地