合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.12.08

武術の死生観

武術とスポーツや一般の格闘技との最も大きな違いは死生観ではないでしょうか。

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武術は基本前提に「死」があります。

スポーツでも不慮の事故や過度のトレーニングにより時に死に至ることはありますが、武術は初めから「死」が念頭にあるのです。

合戦、闇討ち、真剣での決闘・・・古武術は常に死と隣り合わせの状況を想定しています。刀、槍、薙刀、弓矢、鉄砲、古武術で使うのはいずれも相手を殺し、己を殺す「兵器」です。

武術の精神性は一面、死の恐怖をいかに乗り越えるかという命題と共に培われてきました。古来より武術が信仰と深く結びついてきたの理由の一つもそのためです。現代のリアリストを自認している人々は、信仰は非科学的で無価値なものと考えているかもしれません。しかしそれは、社会システムの発展と医学の発達によって「突然訪れる死への恐怖」から遠ざかった現代人だから可能な在り方ではないかと思います。

本来、人間は弱い生き物です。白銀にきらめく真剣、真槍、己を狙う弓矢、銃口を目の前にし、死の恐怖に直面しながらなお己を保ち、気力をふりしぼって戦うことは並々のことではありません。その時、日ごろから強い信仰心を持ち、神仏の助けがある、もし死んでも極楽浄土に行ける、という心の支えがあることは計り知れない力になると思います。

現代日本の社会も決して安全ではありませんが、前近代社会の人々はそれ以上に常に死と隣り合わせの生活でした。大きな合戦がなかった時期でも弓矢や刀、槍といった殺傷力の高い武器が常に人々の身近にあり、特に刀は普段の生活の中でも常に携帯され、ちょっとした争い事が生死を賭けた斬り合いに発展することは日常茶飯事でした。今でこそ「ケンカ=殴り合い」といったイメージですが、前近代社会では「ケンカ=真剣での斬り合い」・・・どころか、時には槍、弓矢を持ち出しお互いに何十名という仲間を集めて合戦さながらの大乱闘を繰り広げることさえ珍しくなかったのです。

多くの現代武道や格闘スポーツではかつての武術のような「負ければ死ぬ」という概念はありません。しかし、我々の合氣道では短剣、木剣、杖といった武器を使いますから、もしこれが本当のナイフや刀槍であったら・・・という緊張感は常に持っていなければならないと思っています。

「真剣に○○をする」と簡単に言いますが、本来は真剣を突き付けられた時くらいの非常な緊張感を持って事に臨むという意味です。そうでなければ精神修業としても不十分ですし、残念ながら現代日本もあまり安全ではありませんので、合氣道の護身術としての側面はまだ強く必要とされていますから。


死生観ということについて付け加えれば、生き物はいつ死ぬかわかりません。

自分は父がわりと早く、それも急に亡くなったこともあって、自分などいつ突然死ぬかわからないと思っています。歴史の中でも多くの人々が予期せず突然亡くなっています。これを書いているのは2021年12月8日、その80年前に太平洋戦争が開戦しました。その後の激戦の中で、前線の兵士はともかく国内の普通の町や村にいながら空襲、原爆投下で亡くなった何十万人という方々がそれを予測することができたでしょうか。自分だって明日・・・いや、いまこの文章を打っている真っ最中に死ぬことだってあり得ると思っています。だから、命のあるうちにやれることはやっておこうと思っています。

合氣道ももっと稽古したいし、もっと研究を深めて言いたいことは言っておこうと思い、特に近頃このようにいろいろな文章を書いています。濱田師範長の目に止まって「未熟者がつまらないことを何ダラダラ書いているんだ!」と注意されないかと毎度ビクビクしながらですが・・・

いつまであるかわからない命、未熟者なりに生きている限り修業を続け、少しでも先師から受け継いだ開祖の教えを誰かに伝えていきたい・・・

そのように思っている今日この頃です。

合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

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