合氣道真生会川崎高津道場 活動報告
2021.09.18
女性の武道史
現在、合氣道、薙刀、剣道、弓道、柔道、空手その他多くの武道で女性が大活躍していますが、歴史の中で女性はどのように武術~武道に関わってきたのでしょうか。
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〈 様々な武道の合同イベントの様子 〉
歴史的に見ると、古代~室町時代の頃までは平家物語の巴御前のようなごく一部の特例を除き女性はほとんど武術を稽古しなかったようです。今よりもはるかに「男性」と「女性」の役割が区別されていた時代において、合戦で戦うのは男性の仕事であるから女性に武術は必要ない、という考えが強かったのかもしれません。戦国時代までの武術は、平時の護身術としてより合戦での戦闘術としての意味が大きかったですから。実際には女性が集団的に戦闘参加していた事例も少なからずありますが、それは「居住地域が包囲攻撃された際の総力防衛戦」といった場合が多く、計画的な軍事行動に女性が戦力として組み込まれることはほぼありませんでした。
海外の事情には詳しくありませんが、中国拳法は古くから女性もよく稽古していたように思われます。中国拳法は不安定な社会状況に応じて庶民にも護身術として広まり、また道教・仏教との関わりにより古くから心身の修行法、健康法と考えられるようになりました。西洋ではどうだったでしょう。想像の範囲ですが、貴族階級のご令嬢の中には護身術やスポーツ的な趣味として剣術、鉄砲術、馬術などを稽古する人は割といたかもしれないと感じます。近世以降の西洋では乗馬で野山に入って銃で動物を撃つ「ハンティング(狩猟)」が主に上流階級で愛好されており、貴婦人もしばしば同行していたようです。フェンシングとしてその技法が伝わる細身の長剣(レイピアなど)が16世紀ごろから護身・決闘用に携帯されるようになり、戦場用の大剣に比べれば軽量で扱い易く、見た目にも優美であるため女性の剣技修行を促進したかもしれません。もしかしたらベルばらのオスカル様のような強くかっこいい女性が実在したかも・・・??
日本では江戸時代に入ると、なぜか薙刀(なぎなた)が女性の武術として定着し、武家の女性の間で稽古されました。その風潮は現代まで続き薙刀といえば女性の武道というイメージがありますが、元々はそんなことはありませんでした。薙刀は鎌倉時代から室町時代にかけては太刀と並んで白兵戦における主力兵器で、例えば鎌倉時代の元寇を描いた絵図には多くの薙刀を手にした兵士が見られます。薙刀は、切る、払う、突くと多彩な攻防ができ、ほぼ全方位への攻撃が可能です。敵味方の数が少なく、ある程度空間に余裕のあった中世までの合戦では大きな威力を発揮したでしょう。
〈 なぎなた道体験 〉
しかし戦国時代になると敵味方の兵数が増大し、また農村から徴募された戦闘に不慣れな臨時兵士も多くなったため、比較的に操作が容易で集団戦に適した槍(やり)が白兵戦の主力兵器となりました。その結果、戦場から離れた薙刀は、両手の間隔を広く取り、さらに長柄の遠心力を利用して少ない力で大きな威力を生み出すことのできる武器として女性に用いられるようになったのかもしれません。実際に幕末の会津戦争(1868年)では武家の女性たちが官軍を相手に薙刀で奮戦したことが伝えられています。それにしても、「女性だけが修行した武術」というのは世界的に見ても珍しいのではないかと思います。また特定の武術のみとはいえ、公に女性の武術修行が認められていたことは武士が国を治めた日本の歴史の特性であると思います。他に一部には剣術や小太刀(こだち:刃渡り40~50cm程度の短い刀)、鎖鎌などの心得のある女性もいたようです。例えば幕末の女性剣士として千葉佐那(さな)さんなどが有名です。父の千葉定吉は北辰一刀流を創始した千葉周作の実弟であり、桶町千葉道場を開いていました。その道場で共に稽古した坂本龍馬と佐那(さな)さんは同門の剣友ということになります。
しかし、人口の9割以上である庶民の女性はほとんど武術を稽古する機会はなく、更に明治時代に入り武家社会が終わると上流階級の女性も近代化を進める情勢の中で武術から離れていきます。結局、戦前まではまだ武術・武道を稽古する女性は少なかったのではないかと思われます。短期的な現象としてアジア太平洋戦争中の一時期に学校教育や婦人団体の活動の中で女性も薙刀、銃剣などの集団訓練を行っていますが、後の女性武道の発展へのつながりはほとんどないと考えられます。前述のように総力防衛戦において女性が臨時的に戦闘参加することは歴史上珍しいことではありませんでした。剣道、柔道を稽古する女性は戦前にもいたようですが、かなり少数であったようです。日本初の女性の公式戦が開催されるのは剣道、柔道共に戦後10年以上を経過してからの時期で、 女子の全日本選手権大会が初めて開催されたのは剣道で1962年、柔道は1978年です。
そういった中で、合氣道(※「合氣道」の名称使用は昭和17年からですが、混乱を避けるため統一します)は他の武道に比べて早い時期から多くの女性が稽古していたようです。
自分が名前を知っている方で最も古いのは、文人の柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)先生です。NHKの連続テレビ小説「花子とアン」で仲間由紀恵さんが演じていた蓮子さん(蓮様)のモデルとなった人物として記憶にある方も少なくないのではないでしょうか。白蓮先生は大正10年のころ世に言う「白蓮事件」の最中、一時京都郊外に潜伏していた時期があり、そこで合氣道開祖・植芝盛平翁先生の教えを受けたようです。開祖は大正9年~15年ごろまで、京都郊外の綾部に自身初の道場である「植芝塾」を開いていました。白蓮先生は、「女子でもできるとはおもしろい」と言っていたというから、やはり当時はまだ女性は武道とあまり縁がなかったのでしょう。そのころ白蓮先生は30歳代半ばで開祖とは年齢も近かったので(開祖が2歳上)そういった面でもどこか親しみを感じたかもしれません。
開祖が東京に拠点を移し、さらに昭和6年、新宿に「皇武館」が開設さると、間もなくの時期に国越孝子先生が入門しています。同時期には門弟であると同時に主要な後援者でもあった竹下勇海軍大将のご令嬢も稽古していたそうで、この時期は女性の稽古者がけっこう多かったようです。様々な稽古地で撮影された集合写真にもよく複数の女性の姿が写っています。国越先生は請われて複数の婦人団体へ護身術の出張指導にも趣いており、合氣道に段位制度が導入された最も早い時期に三段を允可されたそうです。なお、竹下勇海軍大将のご令嬢には、繁華街で手を掴んできた不埒者を路上に投げつけて凱旋したという「武勇伝」が伝えられています。
しかし昭和20年の敗戦により世の中は大きく変化し、社会の混乱、生活の困窮、GHQの統制などによりしばらくは武道の稽古自体が容易ではない状況になりました。空襲を免れた新宿の皇武館、即ち現合気会本部道場も、一回の稽古に参加するのは数名程度だったそうです。前述の国越先生なども戦局が悪化した時期に稽古を離れており、おそらく女性は全くいなかったでしょう。
その後、昭和30年ごろでもまだ女性は数名しか稽古していなかったそうです。その中に後に熊本で万生館合氣道を開く砂泊諴秀(すなどまりかんしゅう)先生の姉である砂泊扶妃子(ふきこ)先生がいたことを合気会の小林保雄師範などが回想しています。当時の主な門人方の複数の集合写真に、女性で唯一この砂泊扶妃子先生がよく写っています。そして昭和30年代後半ともなると各地の稽古風景の画像、映像に多くの女性の姿が見られるようになります。そして今や女性が稽古することは当たり前のことで、師範、指導員として活躍されている方も多数おられます。我々の合氣道真生会にも六段の師範である濱田弥生先生がいらっしゃいます。
指導員が全て女性の「健康のための合気道教室」(池袋)
本来の合氣道は試合や乱取りを行わないので危険性が少なく、経験の浅い女性でも男性と共に稽古することが可能です。そして稽古を重ねていくことで体力に自信のある男性をしのぐ優れた技の冴え現します。自分の先輩の男性合氣道師範は、高校時代は空手部、大学時代は日本拳法部で鍛え上げたバリバリの格闘派ですが、熊本の道場で女性有段者に動きをピタッと止めらてたことが合氣道入門のきっかけになったと語っていました。自分が稽古している感覚でも、筋力があるだけに長年稽古しても自分の動きのクセから離れることのできない男性たちにくらべ、女性の技の方が柔かく素直でいいなと感じることがしばしばです。
開祖は合氣道は「万人が進むべき道」だと語っています。「万人(ばんにん)」には当然、女性や高齢者、障害により体が不自由な方も含まれるはずです。合氣道では戦前の頃から女性もご年輩の方も体の弱い方もたくさん稽古していました。この先も様々な方が活躍し、体力まかせの闘争術ではない「合氣とは愛なり」の真の合氣道が探求され、広がっていくことを心から願います。
〈 川崎高津道場の稽古風景 〉
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~ おまけ ~
道場近くの用水路にナマズがいました。大きさは30センチくらいあったでしょうか。。コイと並んで泳いでいました。。魚を見るのが好きなので、ちょっと珍しいのがいるとテンションがあがります。。
溝の口駅前の花壇にでっかいヒマワリが咲いていました。。中の丸い部分だけで直径20センチくらい、全体の直径は30センチくらいありました。。でも重すぎてお日様の方を向けずに下を向いていました・・・(^_^;)
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合氣道真生会川崎高津道場 吉見新