合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.08.01

武道の段位、武術の免許

武道における「級」とか「段」とはなんでしょうか?

現代はごく当たり前に用いられている級や段はずっと昔からあったもあのではありません。

江戸時代以前の武術では各流派ごとに免許制度を設けていました。段階ごとの免許の名称も統一性はなく「切り紙」「目録」「允可」「皆伝」などまちまちでした。しかし江戸後期の剣術では、「目録」で指導員クラス、「免許(皆伝)」で師範クラスというある程度の共通認識があったようです。段階は江戸中期では概ね八~十二くらいの流派が多かったようです。一般に「免許(皆伝)」を得れば、正式に自分で道場を開いて門弟を育てることができました。合氣道開祖植芝盛平翁先生も柳生流柔術、大東流柔術などで免許を得ています。武術の免許制度と現代武道の段位制度を同じ価値観で理解するのは性質も社会状況も大きく違うので困難です。武術の免許の多くは段階ごとに定められた技法を習得したことを証明するものでした。「目録」は現代でも「賞品目録」などと言うように「リスト」のことで、正に「習得した技法のリスト」という意味です。現代武道でも級位・段位ごとに審査の課題技法などが定められていることがありますが、武術との大きな違いは、その段階の免許を得る前には、次の段階の技法は決して教えてもらえないということでした。古武術の技法はことごとくが「秘伝」であって、外部の人間にはもちろん、仲間内に対しても滅多に公開されなかったのです。

〈 刀の隣、下に免許状が見えます 〉

さて、現在、合氣道、剣道、弓道、薙刀、柔道、空手、少林寺拳法、日本拳法・・・などなど、ほとんどの武道は段位・級位の制度を設けています。おそらくその全てが級位から始まって段位に進みます。自分が経験した武道では居合道(全日本剣道連盟所属)は一級、少林寺拳法は五級がはじめの昇級だったかな・・・と思います。現在剣道、柔道は八段を最高位としており、特に功績のあった人には没後に九段が追贈されることもあるようです。合氣道は、例えば一番大きな団体である合気会では八段を最高段位と規定しています。過去には九段、十段も允可されていました。その他現代では武道以外でも舞踊、書道、珠算、囲碁、将棋など、主に日本の伝統文化に由来する多くの分野で段位制度が用いられています。

〈 様々な武道が集まった合同イベント 〉

私たちの合氣道真生会では中学生以上は入門してから級外→五級→四級→・・・一級→初段→弐(二)段→参(三)段・・・と進みます。最高段位は濱田師範長の八段、続いて七段、六段の師範方がいらして、いま自分(吉見)はおまけでいただいた五段です。川崎高津道場ではいま他に二人が初段、一人が一級です。昇級・昇段にはそれぞれに稽古回数・期間などの規定があります。上達の早さももちろんですが、特に社会人となれば稽古に行ける頻度も各人で条件が全く異なるので、昇級・昇段のペースには大きく個人差があります。自分の場合は入門から初段に約4年、初段から五段までに20年といったところです。四段から五段に10年かかりましたので、まぁ、生きているうちに六段には上がれないでしょう。実力も功績も人気もな~~~んにもないので仕方ないです(苦笑)。

話を元に戻しますと、合氣道、柔道、空手、少林寺拳法などは初段以上が黒帯となっており、初段(黒帯)獲得を一つの目標として稽古する人も多いようです。武道に段位制度を取り入れたのは、おそらく大きくは講道館柔道が始めで、明治中期のことです。折しも明治28年には武道の統合団体である大日本武徳会が発足し、様々な武道が共同で活動する機会も増えていく空気の中で、段位制度も武道全体に広まっていったと思われます。合氣道では(「合氣道」という名称の使用は昭和17年以降ですが、混乱を避けるためここでは合氣道に統一します)、昭和10年代の頃から段位を用いるようになったようで、それ以前は古武術から踏襲した形式の免許制度を場合に応じて使用しており、昭和7年からの一時期には「助士・宣士・導士」という(異説あり)三段階の指導員制度を定めていた時期もあったようです。

そもそも段位・級位というのはなんのためにあるのでしょうか?

大きくは三つの意味があると思います。一つは稽古者の努力と上達を認め、さらなる研鑽を促すためです。二つ目は稽古参加者の実力を把握し易くして稽古を安全かつ効果的に行うためです。三つめは対外的にその人の能力と立場を示すためです。

合氣道では、開祖ご自身は免許や段位に無頓着であったようですが、合氣道が徐々に世間に広まる中で、各地に赴く指導者たちや逆に指導を受ける側の人々からの要望もあって段位が取り入れられたようです。いわば段位はそのまま指導者としてのレベルを示すものでもあるのです。それだけに有段者には責任が伴うということです。

世の中には段位が上がることで自分が偉くなったと思い込む人間も少なくないようですが、それは大きな勘違いであると思います。いただいた段位を重く受け止め、さらに高みを目指して稽古し、研究を深め、心身ともに段位に恥ずかしくない姿を示すことが有段者の義務であると思っています。「指導者」とは「教え屋さん」と思い込んでいる人も多いかもしれませんが、率先して誰よりも努力する姿を示すことこそが「指導者」の最も大切な在り方ではないかと思います。

・・・そう言っておいて自らを省みると「ほんとにごめんなさいっ!!」という気持ちになりますが、例え後追いになってもいただいている級位・段位に恥じないで済むよう仲間ともども修業に努めて参りたいと存じます。

併せて、いま自分は川崎高津道場の仲間たちの昇級・昇段に責任を持つ立場にあります。これを公平・公正に行うことは、道場の運営責任者として大変に重要な使命であると思っています。せっかく一生懸命に稽古している仲間たちがガッカリして不信感を抱き、やる気を失ってしまうようなことがあればそれは一つの道場だけでなく合氣道全体の損失です。そのようなことにならないよう、自らの責任を強く自覚して道場運営に尽力していきたいと思います。

〈 川崎高津道場の昇級・昇段式 〉

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~ おまけ ~

本日八月一日は「八朔(はっさく)」と言って徳川家康公が江戸に入府、つまりお引越しして来た記念日で(1590年)、江戸時代には大名、旗本たちにお菓子などが配られたそうです。会社や学校の創立記念日に紅白饅頭とかお赤飯が配られるのと同じような感じですね。何百年も前の偉いお侍さんたちもそんなことをしていたのだと思うと、なんかおもしろいです。。

〈 旧江戸城 〉

家康公が来る前の江戸はただの田舎でした。家康公は豊臣秀吉公の命令で静岡から関東に移転したわけですが、拠点の候補としては直前まで北条氏が治めていて栄えていた小田原や源頼朝が幕府を開いたいわば武士の故郷とも言うべき鎌倉がありました(どちらもいまの神奈川県)。しかし家康公は新たな拠点としてほぼ何もなく、湿地ばかりで当時決して住みやすくなかった江戸をあえて選び、それが現在の東京とその周辺地域の発展の起源となったのですから、大変な事件です。

江戸は50万人以上の武士とその家族が生活する「武家の都」でした。江戸の住民のほぼ半数が武家だったのです。当然それは武士の必須技能であった武術の発展にも大きく影響し、当時の江戸は「武術の都」でもあったと思われます。時代は移ろいますが、開祖が初めて武術を学んだのも江戸から名を改めた東京でのことで、明治35年、19歳の頃でした。

〈 江戸時代の武士の像 (熊本)〉


川崎高津道場のある溝の口もかつて江戸から霊山である大山(おおやま)への巡礼路、そして東海道、あるいは鎌倉方面に抜ける街道の宿場町として栄えた土地です。家康公の江戸入府がなければ、この街も今とは全く違う姿だったことでしょうね。

〈 溝の口駅前 〉

〈 大山街道の案内パネル 〉

あ、この前、稽古に行く途中の用水路で亀を見つけました。甲羅が20cmくらいでしょうか。何亀さんですかねー。在来種だろうが外来種だろうが、頑張って生きているのだから立派です。。

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合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

~ おまけのおまけ ~


土用の丑の日、鰻の代わりに油揚げ食べました(なぜ?)。。そして、そうめん様が愛おしくて仕方ない今日この頃です・・・(-∀-)

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