合氣道真生会川崎高津道場 活動報告

2021.03.03

「道場長(高段者)の病い」にかからぬように

「道場長(高段者)の病い」とは、端的にいうと「自分の実力への慢心」です。

はじめに言っておきますが、自分(吉見)は高段者ではないし、道場長の資格があるとも思っていません。

道場長ではない…というのは、決して責任放棄を宣言しているわけではないので、誤解の無いようにお願いします。川崎高津道場の運営は自分が全責任を引き受けます。

ではどういうことかと言えば、偉そうに自分が「道場長です」などと名乗れるような実体を伴っていないということです。本部が発行している「合氣道真生報」の記事ではたまに「吉見道場長」などと記載していただいていることもあり、そのお心遣いはとてもありがたく、全く嬉しくないと言えばちょっと嘘になります。ですが、川崎高津道場をなかなか盛り上げられず、真生会の発展になんら貢献できていない現状を思うと、とても自分から「道場長」と名乗る気持ちにはなれません。そもそも濱田師範長から道場長に任命されたわけでもなく、自分が勝手に道場を開設して(もちろん許可はいただきましたが)責任者の立場になっただけですから。実際に、自分の周囲の方々で私が道場長と名乗ったことを聞いたことがある方も、そういった私の文面を見たことがある方も絶対にいないはずです。

一応、自分で決めた基準として、①川崎高津道場のレギュラー会員を10名以上にすること。②六段に昇段し、正規の「師範」に認可していただくこと(これが即ち濱田師範長に認めていただいた一つの証になるかな…と思うので)。この2点をクリアした暁には、一応自分が「道場長」であると自覚してもよいのかな…と考えています。…ということは、まぁ、現状とこれまでの経緯から考えて自分が「道場長」を名乗る日が来ることは死ぬまでないと思います(笑)

前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、タイトルに挙げた「道場長(高段者)の病い」とは何かというと、これは自分が勝手に考え出したものですが、つまりは「相手が受け身を取るのは、自分の技が優れているからだ」と思い込んでしまうことです。

道場長や高段者が技をかければ、当然、教わる立場である相手は礼儀として受け身を取ります。真生会ではもちろんそのようなことはありませんが、他の会派では上級の門人の技に受け身を取らなければ注意を受けることがあるし、それが続けば昇級・昇段に悪い影響が出る可能性もあります。さらには他の門人からも悪い印象を持たれて稽古しづらくなることもあるでしょう。ですから、基本的に下位の門人が上級の門人の技に逆らうことはありません。そしてそれが積み重なった結果、上級の門人、特に長年そういった状況に浸ってきた道場長や高段者は、「自分の技は優れている」と勘違いしてしまうようになる傾向があるのです。更には、自分の技がうまくいかなかった場合は相手の取り方が悪かったから、あるいは受身が下手だからと決めつけてしまうことさえあります。

これは恐ろしいことです。もしそのまま己の技に疑問を持ち、真摯に研究する姿勢を失えば、もうそこから先の成長はありません。むしろ劣化していく可能性の方が高いです。自分はこの病にかかっている高段者を何人も見てきました。全くできていないけどいつまでも動かないと悪いから受け身を取ったら「効いただろ!」と喜々とした笑顔を浮かべた方、力任せにグングン押してきて、抵抗すると疲れるから受け身を取っていたら「どうだ、力を抜くと技が効くだろう」と自信満々で指導してくれた方、いかにも「私はできてます」と言わんばかりの横柄な稽古姿勢に、いい加減にイヤになってピタっと技を止めたら「え!?なにごと!?」とばかりに目を丸くしていた方、一番ひどかったのは手を触らせもせずにユラユラ動かしていて、自分がその意味を知らずに立っていたら、「あいつは受身が下手くそだな」と周りに陰口を言っていた方(後で一緒にいた友人から聞きました)。その会派では指導者が手を動かした方向に受け身を取るのがルールだと後で知りました。その稽古の意味はいったいなんなのでしょう?もちろん、その道場には二度と行きませんでした。

様々な会派の道場に出入りしてきた自分は、こういった残念な経験には枚挙に暇がありません。そうした経験から、とにかく自分が今後も合氣道の探求を進めていくために、「決してこの病にはかかるまい!」と心に決めました。

つまり、段位が上になるほど、「相手は自分に合わせてくれている」ということを理解した上で常に疑問を持ち、真摯に己の技に向き合わなければならない、ということです。他人が指摘してくれないのだから、徹底的に自分で自分に向き合うしかないのです。

これは自分の勝手なポリシーなのですが、特に呼吸力養成法の時には、体験の方や入門して日の浅いの方には手の取り方に注文をつけないことにしています。稽古進行の都合上、右手で、とか両手で、とかくらいは言いますが、それ以上は取り方に注文をつけません。もちろん、「私がこうしたらこう動くように」などと指示はしません。そうすると、強く取る方もいれば弱く取る方もいる、ちょっと動かそうとすると手を放してしまう方もいます。もちろん、うまくいくときもあれば失敗する時もあります。しかし、失敗した時こそ、なぜ失敗したのか、ではどうすればよいのかをとことん研究します。新しい方が来た時は正に自分の技を見直すこの上ない絶好の機会なのです。それを、自分がやりやすいようあれこれ注文を付け、更にはどう動くかまで指示してしまうようなことは、自分の成長の機会を奪う、極めてもったいない行為だと思っています。

(以前の体験会の様子。この時も何も指示せず好きなように手を取ってもらいました)

加えて言うと、川崎高津道場では受け身を取るか取らないかも各々の自由判断としています。もちろん技の性質上、受け身を取らなければ危ない、もしくは形を学ぶ上で受け身を取ってもらう必要があるといった場合にはそのように説明します。他会派では(特に指導者が投げ手の場合)とにかく全ての技に受け身を取るように指導している道場もあるようですが、自分は仲間たちとそういう稽古をしたいとは思いません。…というか、川崎高津道場の仲間は自分より年上の50代、60代の方がほとんどであまり無理をさせられないので、受け身を取るのは主に私の仕事です。。おかげで若い頃より受身がうまくなったような気がします(笑)。なにせ連続技の練習でも全員分の投げの受け身を全て自分が取るのですから…

44歳にしては頑張って跳んでいると思いませんか…?(笑)

合氣道は試合を行いませんので、公平な視点で技能を競い、己の実力を計り知る機会がありません。もちろん、だから合氣道を競技化すべきだなどということは全く思いません。和合の武道である合氣道において、試合は開祖が厳しく禁じるところでした。また他の武道が試合を行うために長い歴史の中で培われてきた多くのものを失い、時に武道の本旨から外れてしまっていることを私は感じています。なればこそ、合氣道を探求していくためには、いかに高い段位を得ようと、多くの門下生に囲まれて持ち上げられようと、決して思い上がって目を曇らせることなく、徹底的に自己に向き合っていかなければならないということです。そして、その自己評価の基準は、その時の自身の技が、心が、「合氣道の精神」にかなっているかということです。

幸い、川崎高津道場は近頃ちょっとずつ仲間が増えてきて(それでも真生会全道場中最小人数であろうことは明白で、なんとも申し訳ないことですが…)、更にいろいろなことが試せる環境ができつつあります。何も持っていない、何もできない、まるでダメな私ですが、これからも決して「病い」にかかることがないよう、常に「真の合氣道とはなにか」を思いながら仲間たちと共に稽古に励んでいきたいと思っています。

濱田師範長には教えていただきたいことが大盛り山盛りてんこ盛りですし、同門の皆様、川崎高津道場の仲間たちには手加減なしで稽古につきあっていただきたいと思っています。

これからも何卒宜しくお願いします!!

でもハートは板チョコ並みに脆いので優しくしてくださいっ!! ← 台無しである。。

今は概ね6,7名で稽古しています。。

合氣道真生会川崎高津道場 吉見新

〇おまけ1 つもお世話になっているご近所さん

〇おまけ2 最近、「焼き油揚げ」にはまってます。。(5枚入り100円のです)

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