合氣道真生会川崎高津道場 活動報告
2015.07.02
合氣流道訪問記
合氣流道は、合氣道開祖植芝盛平先生の直弟子であり、万生館合氣道を開いた砂泊諴秀先生の実兄でもある砂泊兼基(氣海)先生の門下にあった寺田氣山先生が創始した、いわば合氣道の兄弟とも言える武道です。
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砂泊兼基(すなどまり かねもと)先生(?1914-1983)は、「合気道開祖植芝盛平」(昭和44年・講談社)の著者です。同書が出版されたのは合氣道開祖・植芝盛平翁先生(以降「開祖」)がご逝去される2ヶ月前のことで、開祖は同書を手に取られて大変喜ばれていたということです。「合気道開祖植芝盛平」は「武の真人」と改題、昭和56年、たま出版より発刊されました。
砂泊兼基先生は昭和初期に開祖の門下に入っていますが(昭和3年に初めて出会い、その後間もなく入門したとされます)、その時期は合氣道の歴史の中ではまだ草創期とも言える時期(※1)で、合氣流道の中にそのころの武道の姿が残されているならば、それは合氣道を研究していく上でとても興味深いことです。ただ砂泊兼基先生は開祖の弟子ではあるものの合氣道の団体に所属したことはないため段位などは得ておらず、代わりに開祖より「道統合氣」という免許状をいただいたということです。残念ながらこの免許状がどういったものかは全くわかりません。
砂泊兼基先生は「合氣整体」を考案し、整体師として活躍しながら道場を開き稽古を続けていたようです。昭和の半ばごろに東京都の大森で開業していた時期もあり、新選組三部作などの著者として有名な作家・記者である子母澤寛氏(1892~1968)も奥様と共によく通院していたと手記の中で語っています。
なお、砂泊兼基先生の実弟である砂泊諴秀(すなどまり かんしゅう)先生は、昭和17年に開祖の内弟子となり、戦後は熊本を拠点に九州での合氣道普及に尽力し、昭和36年には開祖より合氣道九段を允可されると共に九州師範長に任じられました。その後、昭和44年の開祖ご逝去に伴い合気会から独立、万生館合氣道を開いています(2010年ご逝去/行年87歳)。砂泊諴秀先生は、少年のころ兄(兼基先生)に伴われて開祖の演武を実見したことが、後に合氣道に入門したきっかけであると著書の中で述べています。さらに妹の砂泊扶妃子(ふきこ)先生(?1918-2006/諴秀先生の姉)も開祖の愛弟子であり、かつ直心影流薙刀の達人である園部秀雄先生の門弟でもありました。伝記の執筆に当たってはこの扶妃子先生も関係者への取材などで多大な貢献をしたそうです。
万生館合氣道 砂泊諴秀先生と(2009年:熊本)
砂泊諴秀先生の著書
私(吉見)は「武の真人」を読みながら砂泊兼基先生について調べている中で合氣流道の存在を知り、2015年6月13日(土)、神奈川県藤沢市の合氣流道愛神館を訪問しました。
合氣流道愛神館は神奈川県藤沢市の小田急線六会日大前駅から徒歩10~15分ほどのところにあります。周囲は閑静な住宅外で、少し先には田園風景も広がっていました。
今回は実は事前の連絡がうまく取れず、見学を許して頂けるかどうか甚だ不安な状態で、HPの「見学歓迎」という一言のみを信じて道場に赴いたのですが、門前で関係者らしき女性に声をかけてみたところ「どうぞどうぞ」と気軽にお許しを頂くことができて大変安堵いたしました。
道場正面には砂泊兼基先生直筆の色紙も掲げられています
稽古は夕方6時から始まり、まず体操にはじまり受身の練習、そして膝行と続き、体操では私たちの合氣道でも行う動作に似たものがいくつか見られました。その後は技の練習に入り、まず合氣道の正面打ち一ヶ条、二ヶ条(座り技)に似た技を稽古されていました。手の動きや極(き)め方などはほとんど合氣道のそれと共通していましたが、打ち込みを受け止めてから技を極めるまで体さばきをほとんど行わず手の動きだけで技を行うことが多いように見られました。師範である田中先生ともお話させていただきましたが、合氣道も初期には体さばきは少なく、その場で相手の攻撃を受け止めて技を行う形が多かったようなので、その時代の技法を受け継いでいるのではないかと思われました。
その他に両手取りの技や袖取りの技を数多く稽古され、私たちの稽古する合氣道に共通するものもあればそうでないものもあり、それぞれに興味深いものでした。印象的であったのは座り技が多かったことです。近年多くの会派の合気道では座り技の稽古はやや減少していっている傾向を感じますが、開祖は座り技を大事にしていたことが多くの言い伝えから推察されます。またその弟子である砂泊兼基先生も、前述の著作の中で合氣道は座り技が基本であるといったことを強く述べています。
稽古は小休止を挟みながら1時間半ほど行われ、門人の方々は田中先生のご指導の下でじっくりと探求を深めておられる様子でした。田中先生のご指導も丁寧でとても勉強になりました。快く見学を許して下さり親切にいろいろなお話をお聞かせ下さった田中先生、そして門下の皆様に心から感謝致します。
【※1】開祖が初めて自身の道場「植芝塾」を開いて武道を教授しはじめたのは大正9年(1920年/開祖36歳ごろ)、京都の綾部においてであり、その6年後の昭和2年に門人たちの求めに応じて東京に移転し、しばらく住居も稽古場所も都内を転々と移動し(砂泊兼基先生はこの時期の入門か)、本格的な道場として皇武館(新宿区/現合気会本部所在地)を開設したのは昭和6年(1931)です。参考例として、後に養正館武道を開く望月稔先生が入門するのは昭和5年、合氣道養神館を開く塩田剛三先生は昭和7年頃、心身統一合氣道会を開く藤平光一先生は昭和14年頃となっています。武道の名称は、昭和初期においてはまだ固定されておらず、合氣武術、植芝流柔術、相生流、皇武道など様々な名称が時に応じて用いられていましたが、昭和11年に合氣武道という名称を用いるようになり、更に後の昭和17年に至って合氣道と定まりました。
2015年7月 合氣道真生会川崎高津道場 吉見新
2022年 5月6日 加筆修正