合気道の武器と武器技
合氣道では本来、武器を用いる稽古を大切にしています。合氣道では、自身が武器を操作する武器術と、武器による攻撃に応じる対武器術を稽古します。主に使用する武器は木剣、杖(じょう)、短剣の三種です。
武器技の稽古(合氣道真生会 本部道場)
上から杖(じょう:約1.3m)、木剣(ぼくけん:約1m)、短剣
一般には合気道は「徒手武道」であると思っている方も多いのではないでしょうか。現代の合気道では、武器技は会派・道場によって稽古する道場と稽古しない道場があります。また、行うにしても対武器術は稽古しても武器術(自身が武器を操作すること)は稽古しない道場も多くあります。特に、剣対杖といった武器対武器の稽古は更に行われない傾向にあります。それゆえ、指導者クラスでもほとんど武器技の練習経験の無い方が少なくありません。稽古スペースの事情や指導の難しさ、指導者の能力などから、むしろ武器は使用しない道場の方が多いかもしれません。
しかし、合氣道開祖、植芝盛平翁先生は、青年期から老年期に至るまで、剣術、槍術といった武器術にも多大な関心を持ち、数々の古武術流派の技法を学び、会得したその理法は合氣道の大きな要素となり、「合氣道は剣の理より生まれたものだ」「剣のわからぬものに合氣道はできぬ」といった言葉も遺されています。実際に、開祖と親交の深かった剣道の大家である中山博道先生の門下で、やはり高名な剣道家であった芳賀準一氏は、開祖の技を初めて見た際の感想として、「あれは剣の動きだ、徒手技も剣を持てば剣の技になる」と驚きをもって語っています。また槍(やり)など長い武器も非常に得意であったと古参の門人やご子息が伝えています。大正14年、開祖(42歳頃)が初めて武道家として東京に招かれ、門人や列席者の前で披露した演武は体術ではなく槍術であり、その妙技は観覧客の絶賛を浴びたと伝えられています。
合氣道の体技(徒手技)の大半は、武器との関連を知らなければ正しい理解ができません。合氣道において、体技と武器技には深い結びつきがあります。対武器術の稽古を行うにしても、武器術が未熟な相手では意味がありませんし、自身が武器術に未熟であれば武器を持った相手の動きを予想できません。真の合氣道の理法を学び、探求していく上で武器術の習得は極めて重要です。
剣・杖を修業する開祖
我々がご指導を受けた先師は開祖から直に剣杖の技を伝授されており、実際に昭和30年代に開祖から剣技を教わっている映像も残されています。先師はそれらの技を長年にわたって修練し、磨き続け、門人たちに丁寧に指導してくださいました。
合氣道真生会では、そうした武器技を大切に継承しています。合氣道真生会創設者の濱田耀正(はまだてるまさ)師範長は40年近くに渡って先師の下で内弟子として修業し、数多の演武で先師の武器技の相手役を務め、先師から最も多くの技を受け継ぎました。
合氣道真生会では、剣・杖・短剣を日頃より使用し、剣の形、杖の形、剣対剣・剣対杖・杖対杖といった武器技、対武器技、対武器多数者など、他の会派ではあまり稽古されることのない多彩な稽古を行い、より正しく、深く、合氣道の修練・研究を行うことを目指しています。
川崎高津道場の武器稽古
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~ 歴史に見る徒手武術と武器術の関係 ~
歴史的には、武術は弓、刀、薙刀、槍といった武器術を主流として発達してきました。合戦に手ぶらで赴く兵士はいないのですから当然のことです。
〈 合戦に赴く武者の姿 14世紀ごろ 〉
また護身術の観点から見ても、古代から江戸時代以前の社会において、公家や武士はもちろん、庶民であっても、刀や槍といった武器がすぐに手に取れる身近な存在でした。江戸時代の浮世絵などを見れば、旅人が護身用に刀や脇差(刃渡り30~60cmの短い刀:特に道中差とも呼ばれます)を帯びている姿をいくらでも見つけられます。当時はまだ街道にも宿場町にも山賊や強盗団などがたくさんいましたから。力の弱い女性や高齢者はよく短刀(刃渡り30cm以下の刀)を帯びていました。また1m前後の杖(つえ)もよく携行していましたので、剣、棒、槍、薙刀などの心得があればこれも立派な武器になったはずです。
農村でも武術は盛んでした。戦国時代までの農民は領主の求めに応じていつでも合戦に赴ける即戦兵力であり、農閑期の出稼ぎ感覚で気軽に合戦に出て行く歴戦の猛者もいたそうです。時には農民たち自身が徒党を組み、武器を持って強盗団の襲撃や近隣諸国の侵攻、領主の圧政に激しく抵抗しました。江戸時代後期でも現代の警察のような公的防犯力が地方にはほとんど及んでいなかったため、自衛のために村単位で武術を修練することも少なくありませんでした。新選組との関連で有名な天然理心流剣術の門人の大半は武州多摩地域(現在の東京西部)の農民でした。余談ですが新選組局長近藤勇、副長土方歳三は共にこの多摩の農家出身です。資質を見込まれ天然理心流宗家を継いだ近藤勇やその弟子で師範代であった沖田総司は、1863年に京都で新選組を結成する以前は木刀・竹刀を担ぎ多摩地域で巡回指導を行っていました。茨城県に伝承される無比無敵流杖術では、天明の大飢饉で世情が荒れていた1700年代末、襲ってきた強盗団を村人たちが修練していた同流の杖術で撃退したという逸話が伝えられています。鎖鎌術も農民の身近にある稲刈り鎌を武器化した武術です。
江戸後期に出版された「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛と喜多八の旅姿像(京都) 共に脇差を帯びています
歌川広重作「東海道五十三次 程ケ谷宿」(1830年代) 前の旅人は脇差を帯び、後ろの駕籠担ぎと荷物持ちは杖をついています
柔術(小具足、体術、和術、拳法)は、そういった世の中で、いざという時に素手、あるいは短剣などの小型の武器で剣、槍といった主力の武器に対抗する補助的な武術として発達・継承されてきました。そのため、柔術を主体としている古武術でもその多くの流派が剣術、槍術、棒術といった武器術を併せて継承しています。
徒手武道の存在感が大きくなったのは、明治初期に発令された「廃刀令」により刀の携行が禁止され、軍人や警官でもなければ武器を扱うことがなくなり、そのような社会的背景の中で明治15年に創始された講道館柔道が広く普及していったことが要因として挙げられます。なお明治前までは外国であった沖縄で伝承されてきた空手が日本に広まりはじめたのは大正期以降のことで、戦前にはまだあまり知られていない武道でした。
さらに戦後になると占領軍(GHQ)の統治方針により、武器武道は著しく活動を制限されて存在感を失う一方で、プロレスやボクシングといった徒手格闘の観戦が大衆の人気を集め、柔道がオリンピック種目として脚光を浴びるといった経緯の中で「格闘技=素手(徒手)」という偏った意識が強まり続けて現代に至っていると思われます。昭和後期から人気の高まったカンフー映画やマンガ、アニメ、ゲームの影響も大きいでしょう。
合気道もそういった社会的風潮の影響を強く受けています。現代では他の武道関係者のみならず、合気道の指導者の中にまで「合気道は徒手武道である」と思い込んでいる人物が少なくありません。そう明記した出版物まで多数あります。しかしこれは合氣道の成り立ちを考えれば完全なる誤解です。
合氣道本来のあり方を探求する上では、いつも稽古している道場だけの経験や一部の指導者の意見のみにとらわれず、合氣道開祖である植芝盛平翁先生、開祖の指導を受けた先達、更には合氣道とは直接関係のない歴史や文化などからも幅広く学ぶ姿勢が必要です。
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〈 開祖の高弟による著書 〉
「日本の古武道」(横瀬知行著/日本武道館出版/平成12年)
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合氣道真生会川崎高津道場 吉見新